レモンの花が咲くところ
コーリャ


・クリスチャンでない僕らは上手な祈り方を知らなかった。

日曜日になると、僕とレモンは当たりをつけた家を訪れる。金属製のドアノックを叩く。臆病な小鳥が屋根から飛び立つ。家人は不在だ。そういう決まりになっている。僕たちは頷く。芝刈り機の心臓を揺り起こす。

・時間は掛からない。

小石を取りのぞき、芝を刈り高さをならす、雑種の花はすこし眺めてから毟り取る。窓辺の猫は、その工程を宝石の瞳でみつめつづける。すべて終われば写真を三枚撮る。芝生の写真。レモンの写真。僕の写真。家に帰って日付を書き込み、アルバムに挟む。アルバムを閉じる。パタン。

・名前は呪いのようなものだ。

あなたにいつも寄り添うくせに、それを必ずしも望んだわけではない。レモンという名を始めて耳にしたあなたは、つづりを訊ねてよろしいですか?と言うだろう。L-E-M-O-Nと彼は仕立ての良い楽器のような唇を動かす。当たり前だ。レモンにそれ以外のスペルがあるはずがない。良い名前ですね、とあなたがお世辞を言うと、彼は笑う。彼はかなりスマートに笑う男だった。

・彼はあまり自分のことを話したがらない。

とくに家族のことを口にしたのは一度しかなかった。左胸のポケットをいじる手癖をしながら、父親が病気だ、と彼は言った。それはまるで宣告のようだった。「早く死ねばいい」と彼が言い継いだとき、車のヘッドライトがガードレールに腰掛けた僕たちを舐め、深い影を張りつけにした。はまってしまったらどこにも出ることができない落とし穴みたいだった。自分の影に吸い込まれないように、彼は黙って足元を見張り続けた。

・「私の名前が欲しくないか?」

そう彼は言ったことがある「それなら僕の名前はどうなってしまう?」「紙飛行機を折って空に飛ばすさ。ゴッドファーザーに返すんだよ」名前を交換するというアイディアは馬鹿げていた。僕のそれも使い途がないくらい奇妙だったからだ。「それなら君の名前はなくなってしまうよ」「新しいのをみつけるのさ。もっと良いやつだ」それからレモンは名前を失くした。「どうやらどこかに落としたらしくてね」と彼は言った。ちゃんと探したのか?とたずねると彼はスマートに笑った。

・僕たちは二年かけてたくさんの芝生を刈った。

そろそろ終わりにしようと彼が言った。たしかにアルバムの紙幅も少なくなっていた。僕はゆっくり頷いた。最後の芝生。風の強い日。雲が早送り再生され、さまざまな生物の架空の進化図を示しながら流れていた。裏庭の一番奥には、小さな物置があり、その屋根に老いた果樹の梢が寄りかかっていた。日曜なのに街は無人だった。猫すらいなかった。不気味で静かな庭だった。

・刈り終えたころに天気雨が降りはじめた。

早く済ませてしまおう。彼がカメラを手にとる。そこで彼は凍りついてしまう。訝しんで彼の視線を追うと。芝生の上にレモンの実がひとつ転がっていた。なんだ。僕はおもわず笑って彼をかえりみたが。彼は無表情だった。僕は笑いを手早く隠す。彼をスポットライトで当てるように、水と陽光が手をとり合いながら降った。雪みたいだ、と僕はおもった。彼はそんな場所に凍っていった。もし彼が名前をもたなければ、僕は彼をどう呼びかければいい?君の名前は?花の名前は?国の名前は?そんなことばかり僕は考えた。おもむろに彼はカメラをあげる。ピントを震える指で丁寧にあわせて、シャッターを切った。

・すっかり雪の積もった芝生を彼は歩き始める。

そのたびに、ぼとり、ぼとりと肩から雪塊が落ちる。かがんでレモンを取り上げる。そのまま彼は罰のように雨と光を受けながら、ゆっくりと雪原に沈んでいった。

・その四枚目の写真を僕はアルバムに収めることができなかった。

彼が望んで持ち帰ったからだ。葬式の日。僕は彼にたずねた。まだあの写真は持っているかい?「焼いてしまったんだよ。すごく細かくやぶいてね。焼いてしまった。親父も焼いてやれるとよかったんだけど」この国ではむしろ火葬のほうが高くつくのだ。そういう決まりになっている。夕方。あらかたの光が紫に色を変えながら死んでいく。射光が低いから墓穴はまるで洞窟の入り口のように暗かった。異教の僧侶の呪文が終わると、柩は穴の中へ、やわらかに吸い込まれた。そのまま彼はかがみこみ、闇の深さをはかるように墓穴に手を伸ばした。何も掴むものがないことを知ると、白い花片が彼の手から離れ、それは棺の額に注がれていき、暗闇といっしょに閉じ込められていった。パタン。

・"Do you know the land where the lemons blossom?"

それから彼がどうしたのか? 新しい名前を探しに北半球に渡ったという噂をきいたが、それは誰にも分からない。一度だけ差出人不明の手紙が僕に届いた。消印のスタンプは、いままで誰も見たことがない国名を表記していた。写真が一枚だけそこに入っていた。山の裾まで続く広大な花畑の全景だった。白い花の群れが溢れる光だったころの思い出を懐かしんでいた。まるで世界の始まりの日に盗んできたような情景だ。僕はその花の名前を知らない。裏面には走り書きで。『レモンが花咲く国を知ってる?』 そう書いてあった。馬鹿にしないでほしい。それがレモンの木の花でないことは僕でも分かる。分かるけれど、なるほど。美しい国だ。僕はその絵葉書に書きこみを入れる。名もない花の国。アルバムの最終ページに挟む。アルバムを閉じる。パタン。


*タイトルはゲーテ「ヴィルヘルムマイステルの遍歴時代」第3巻第1章から。原文は"Kennst du das Land, wo die Zitronen blühn"


自由詩 レモンの花が咲くところ Copyright コーリャ 2012-01-30 05:48:13
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