最近読んだ本いろいろ
ふるる

『人生がときめく片づけの魔法』近藤 麻理恵 著

母が「面白いわよ〜」と貸してくれました。なんかどうでもいい著者の過去話や自慢が間に挟んであるので、太字だけでいいなと判断し、10分ほどで読み終えました。
捨てる罪悪感を減らしてくれる本でした。
捨てるに捨てれない無駄なものを、いかに気持ちよく楽しく捨てるかっていう。
色々へえ〜と思うことが書いてある。
「心がときめくモノだけに囲まれた生活をイメージしてください。それこそ、あなたが手に入れたかった、理想の生活ではありませんか?」だって。
つまり、手で触ってみてときめかない物は役目を終えた物として、感謝しつつ捨ててよし。

というわけで、化粧品その他を捨てました。スーパーの袋に3つくらいあった。
まあこの本も、あまたあるダイエット本や収納整理本と一緒で、読んだ時にはやる気になって、数ヶ月で元通り・・・なことになるんだろうけど。


『ミレニアム』1〜3 スティーグ・ラーソン著  

『ミレニアム1』ドラゴン・タトゥーの女

前半ぐだぐだと長いのでつらい。はじまってすぐにヒロインがひどい目にあうのでつらい。主人公の男性がモテすぎてつまらない。登場する女性のほとんどが「さあやりましょう」って脱いでくれる。そんなバカな(笑)連続殺人鬼惨殺描写もつらい。
謎ときの方も、長くてつらい。たいして重要でもない人物がいっぱい出てくる。推理ものってわけじゃなく、地道な捜査ものですね。
ヒロインはロボットのようだし、ハッカーの登場であっさり解決だし、主人公はモテすぎるし、真犯人は不用心すぎるし、主人公のピンチをヒロインが助けに行くっていうのはよかったけど、もっと短くてよかった。

『ミレニアム2』火と戯れる女

前回さんざんだったヒロインが、今回も殺人犯の汚名を浴びたり命を狙われたりとひどい目にあいますが、最後の最後でものすごい反撃を行うので唖然とするやらスカっとするやら。ちょっと社会性と人間味が出てきてよかった。豊胸手術するバイセクシャルの天才ハッカーの乱暴者のアスペルガー症候群ぎみのヒロインて珍しい。
主人公の友人を殺した疑惑がヒロインにかぶせられって偶然すぎですけどね。

『ミレニアム3』眠れる女と狂卓の騎士

これが一番面白かった。解説にもあるけど、3にはミステリのジャンルが色々と出てきます。ストーカーとかは本編に一ミリの関係もないけど、ハラハラするからまあいいか。前半ヒロインは病院で治療してます。2で解決しなかったことが全部解決し、ヒロインを長年苦しめてきた悪いやつも法廷でこてんぱんに。ヒロインを殺し損ねた悪いやつもこてんぱんに。ちょっと思うのは、悪いやつがなんで偽の精神鑑定書まで書いて邪魔になってるヒロインを生かしておくのかってこと。最後の方でやっと殺しちゃえってことを思いつくんだけど、間抜けすぎやしないか。
主人公は相変わらずもってもてで、興ざめしますが、超冷たいヒロインにも友情を持ち続け、救おうと奔走するので、博愛の精神を持ってるのかも。

全体的に見て、女性がめちゃ強い小説ですね。あと、ひどい目にあってる女性を何とかしてほしいっていう願いも込められてる。
登場人物がみんなキビキビ動くのと、何かを作って食べるというシーンがいちいち入るのがよかったです。


『うわさのベーコン』猫田道子著 

橋本源一郎の『ニッポンの小説 百年の孤独』を読んでて、そのなかで大絶賛されていたし、引用されている文章が面白かったので。
『ニッポンの小説 百年の孤独』も面白かったです。散文の限界について考えさせられた。という風に散文で書いたらもうそれは嘘。という感じ。口語体は本当の口語ではなく、明治以来小説に採用され続けてきた形式でしかなく・・・でも便利。まあでも、それには限界があって・・・死とかそういうわからないものについて、わかったふりをして書けてしまうという欠点があり。
形式に従ってわかったふりをして書いてれば、死とかいう分からないものを見ることもなく、読むほうも書くほうも安心、楽ちん。

『うわさのベーコン』は現代小説の形式や約束から逃れている好例として挙げられています。とある文学賞の選考会で問題になったらしい。というのは、「こんなの読むの時間の無駄」という人と「これこそ新しい、すごい」という人がいたので。

内容は結婚願望がある人の独り言って感じで、誤字脱字は当たり前、ですますである調がごちゃごちゃ、話が飛ぶ、ひらがなにひらがなでルビをふる、まあ小学一年生が書いたみたいな文章です。

引用しますと、

「一応私は県内のフルートリストになりました。日本を代表するのは難かしい。世界もその様です。本当に最近は可愛い人で通ってしまいました。あの時の怖いは、陰になったのでしょうか?誰も・・・・?」

「わざわざ、体力の減る手術など受けてまで早く治そうとしなくても、普通にちりょうを受けていたら治っていたのものですが、手術をして下さいと医者に頼みました。
一回だけで、もう、グッタリしているのに、もう一度やって下さいと言っています。
この手術も成攻すると思います。」
(原文ママ)

こんな感じ。携帯小説が出回った今となっては、書き方が幼いことのインパクトは薄い。でも読んでると脳がぽわぽわする。携帯小説が創作不幸自慢の延長なのに比べたら、こちらの方が時間の無駄にならないです。文学賞に出したということは、作者はこれが小説だと思ってるってことで、そういう人材を生み出せる現代社会は捨てたもんじゃないなと思いますね。

これが(一部の人だけだけど)絶賛され、かたや現代詩は、ほぼ固まってしまってるような気がしないでもない。つまり、おふざけや乗りやよくわからない新人類が一切許されない超真面目世界をなんでだか知らないけど保とうとしている感じ。
現代詩で深刻ぶるのは、萌え絵が流行ってる時にそういう絵を描くのと一緒で、そういうのがすっごい好きとか、読者サービスと思ってやってるならいいけど、本気でそれしか詩の形はないと思ってるんじゃないかと、ちょっと不安になります。


『私のいない高校』青木淳悟著

確かに「私」がいなかった。
「近代自我」というやつが。小説のはじめから最後まで、誰も、何の主張もしない。何の個人的感想も抱かない。いかにも教師が発しそうなテンプレ的セリフや感想はあるんだけども。
何の事件もおこらず、とある女子高の日常と留学生の様子と修学旅行の様子が書かれてる。
その視点や描写はまるで幽霊が見ているもののよう。
なんだけど、情緒も叙情も冒険も加えず、しかしそこはかとない面白さはキープしたまま最後まで書ききるということは、ものすごいことです。
おそらくこの作者にしかできない。小説書くって、うっかりするとすぐに「私めが何か気の利いた素敵なことを書きましょう〜」ってなっちゃうから。

明治以降、小説と言えば「私が」「僕が」「こう思ったこう考えたこうすべきだうーん悩ましい」の形を手を変え品を変えしてた。外国文学にある「近代自我」を移植したのです。それが、作者にも読者にもウケがよかったのです。
その習慣をついに破る時が来た。

けど、何の盛り上がりも人物への感情移入もないので、つまらないと思う人には最高つまらない。

けど、面白いと思える要素は色々あって、高校生活や就学旅行をどうでもいいことまで詳しく知りたい人には興味深いと思うし、学校でよく言われるあれ、「家に帰るまでがー」とか「五分前行動は当たり前」とか「寝ている者は手を上げろ」とか、「静かにする。それじゃあまるで小学生!」など、
懐かしく思い出します。

あと、最初何の意味があるのかわからなかった高校の制服の老舗メーカーが、最後らへんで留学生の名前の日本語表記へつながってくるという、伏線とも言えないような伏線。

古文のこともちらほら出てきて、作者の影はそのへんに見えるのかな・・・とか思ったり。Fの音を昔はファ、フィ、と発音していたという教師の説明があり、最後の最後で「ふぁなちる里」とあだ名をつけられたカエデの植木がでてきたり。ふぁなちる里って(笑)

最後に、出てきた人名を登場順に載せてあるのだけど、なんと、修学旅行のカメラマンの名も載っている。華原朋美や田中邦衛も。そこで留学生の
「ナタリー・サンバートン」が「名取三波堂」になったなあ、と一応の感慨深さは味わえる。けど、そこで感慨深さを感じでよいのか。なんかおかしいなあ。

小説の未だかつてない新しい楽しみ方読み方のガイドブック、という感じです。



『パウル・ツェランとユダヤの傷 《間テクスト性》研究』関口裕昭著 読みました。

というのは嘘で、途中途中で疲れちゃって、全部ちゃんと読んでない。ツェランの詩が、どの文学、地質学、天文学、生物学、医学、哲学、心理学、神秘主義思想、船員用語、イデッシュ語の歌などから引用をしているか、誰に会ったときのことか、どんな人や思想に影響を受けているか、(それらのことを間テクスト性と言うらしい)ということが詳しく書いてある。
特にユダヤ神秘主義からの引用のある詩だとさっぱり意味が分からないので、背景が分かるだけでだいぶ違います。
ツェランの詩は、意味不明なもの多しですので。でも、それが何かひっかかりを生むというか、魅力というか、単なる分からないじゃなくて、後ろには何かすごいのがあるんだろうなあと思わせる。

例えば、
「三母音の長さだけ/高い赤の中に/立っている、」(「お前たち、闇の鏡の中に」より)という詩の一節は、

「三母音はヤハウェの神の文字間に隠された母音のことで、高い赤は赤い夕陽に神を重ね合わせたイメージで、」

って分かるか〜!

けど、こんなふうに詳しすぎて一節ごとに解説があって、読むのに疲れます。
詩の言葉の意味を、区切って解釈していくのを読むのって苦手。
もちろんその後、全体としての解釈もあるんだけど。 そうしないとほんとにちんぷんかんぷんの詩が多いというのも分かるんだけども。

地質学の専門書の一節からほとんどの語句がそのまま引用されている詩や、ほとんどすべての単語がショーレムというユダヤ神秘教研究者の著書から引用されているモザイク詩もあって、カフカやフロイトの著書や研究書からの引用もあり、それらを知らないとツェランの詩を読み解くことはできないんだなと分かりました。

ツェラン自身も読者にユダヤの文学や宗教の知識を要求していたというし。

著者が繰り返し繰り返し言うのは、ツェランの詩はユダヤの文化という背景があり、同時にそれは民族の負った傷であり、理不尽な死を強いられた亡き同胞に捧げられているものである、ということ。引用は、死者との対話だということ。
あと、ツェランの詩が分かりにくく、明快さを避けるのは、アドルノがツェランについて言ったように「生命のないものの言葉は、あらゆる意味を失った死に対する究極の慰めとなる。」ということ。感情のこもらない言葉を使うこと、死者の代弁を生きているものの勝手にしないことが、ツェランの死者に対する想い、詩の姿勢だったってことでしょうか。

アドルノは「アウシュヴィッツの後に詩を書くことは野蛮だ」「アウシュヴィッツ後のすべての文化は、それに対する痛烈な批判を含めて、すべてゴミ屑である」と言いましたが、ツェランはひどい体験からも、ドイツ語からも逃げないで、生涯をかけてそれに答えていきました。

ツェランの詩はただでさえ重いんですが、その中の「薔薇」がカフカの小説を下敷きにしていて、実は「傷口」のことなんだという解釈は、読むのがさらにつらくなっちゃいますね。
でも、気になる作家や哲学者には手紙を送ったり会いに行ったりして、意外に社交家だったんだとわかりました。

ツェランの蔵書から引用の典拠を探り当てる作業は膨大で、著者は15年を費やしたそうです。その根気と根性に敬意を表したいです。



『小さいおうち』中島京子 著 

昭和初期から戦争になるまで、女中さんとしてある家で働いていたおばあさんの回想録。と、その甥の後日談。

昭和初期の、お金持ちのおうちの生活や、女中さんが家族みたいに一緒に暮らしてることや、戦争がはじまったばかりの頃の、のん気な空気感がよく書かれてた。

戦時というと悲惨な苦労話が多いけど、女子たちは戦争が本格的になるまでは、のほほんとしてたんだなと。知らないって、幸せなことだなーと思いました。まるで、悪いものから守られている、幸せな子供時代がずっと続いているみたい。

みんながいいと言ってる最後の章は、正直いらないんじゃ・・・と思いました。
それまでの面白さに比べたら、意外な事実が判明とか、実はあれはああで、なんてことは、別にいらないし。本を読み進めさせるため、最後にちょっとした驚きをもってもらうための装置って感じ。

「ハンケチ」「シチュウ」とか「ずいぶん経済に考えました」とか、当時の言葉遣いも面白いです。


mixiの日記より。


散文(批評随筆小説等) 最近読んだ本いろいろ Copyright ふるる 2012-01-18 12:10:40
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