豊かな時代における詩
番田 


誰もいない日曜日に眠りに落ちていく僕は、いったい誰なんだろうと思わされていた。だけど現代詩フォーラムに関する様々なことを思い浮かべさせられながら、今日も終わってしまうのかもしれないと震えだした。このようなことはあまり楽しくはない状態なのかもしれない。だけど、それにしても、何かが間違っている。あまり面白くもない詩が高く評価されているのはばかげていた。おまえらはきっとどうかしているんだと、僕は心の奥で叫んだ。きっと、そうしては、切れかかった石油ストーブの燃料タンクを確認して、ガソリンスタンドに毎日のように足を運ばなくてはならなくなっているようだった。現在の世の中で、たぶん詩はあまりにも古くさいゴミ屑のように評価されている。しかし、今現在の格付けは誰の責任でもないのかもしれない。だが、今書かれているような詩は本来あるべき姿を提示していないようにも思える。フィストファッションのように本来あるべき服の値段を超えて、目玉の飛び出るような値下げを断行していくGAPのような姿勢にもよく似ている。ようはポリシーなくして混乱した時代の中を進んでいくことは絶対にできないのである。


話は変わるが、抽象絵画は具象絵画と比べてどういった形態を取るものなのだろう。だけど、その中には具象的抽象、抽象的具象という表現も存在するのだとは思うけれども。たぶんそれは、様々なジャンルにおけるありかたー、例えば歌やゲーム、料理などでも同じようなとらえ方ができるのだと思う。ビールやコーラなどにおいては原材料がよくわからないぐらいにすりつぶされていたりするが、味噌汁やタピオカミルクなどは幾分材料だとおもえる具材の断片がスープの上に浮かんでいる。たとえばテトリスは抽象的な物体が落ちてくるゲームだが、スーパーマリオやファイナルファンタジーはとても具象的な世界観を提示している。そんなことはどうでもいい。ここで言いたいのは、人が書いている詩と呼ばれる表現に可能性があるかどうかということだ。しかし、生きている我々の生活はあまりにもつまらない社会や、人間関係と呼ばなければならない虚構に支配されていて、そんなことを考える余裕のカケラも残されてはいない。いつの時代も結果だけが亡骸のように、我々の目の前には残されてきた。ここのフォーラムに出入りする人々も、何らかの縁があってこの場所に骨のようなものを残していくのかもしれない。



散文(批評随筆小説等) 豊かな時代における詩 Copyright 番田  2012-01-15 01:11:46
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