ファースト・エンカウンター
板谷みきょう

 うるさい位にジャズが、
大きく流れている薄暗がりの小さな喫茶店。
会話厳禁の中で、
三人はそれぞれに思いを馳せて黙りこくっていた。

十六才の僕は喫茶店と言えば
ホットを頼むのが礼儀なのだと思っていたし、
味も解らずただ熱いコーヒーに水を足し、
氷を入れて飲んでいた。
そして決まってその後、空になったコーヒーカップに
付いてきたミルクと砂糖を入れて、水に溶いて飲んでいた。

一方、ジャズの音が渦巻く中で目を閉じ、
髪を無造作に延ばして髭をたくわえた彼は、
音に心地よく抱かれていた。

この店の常連客の様で、
落ち着き払ったその姿は随分と大人に見えた。
いつの間にか
グラスに付いていたしずくが流れ落ちて、
テーブルの上で小さな水溜りを作っていた。
彼女は伏せ目がちな物憂げさで、
脆い水溜りを指で壊し始め、
黒テーブルの上に
《ばか》と書き綴っていた。

何を考えているのか分からないまま、
僕は、気だるさを身にまとった彼女に
強く惹かれていた。

僕には、
やっぱり何を考えているのか分からない
その彼女と彼の間に、
目には見えない某かの強い結び付きを強く感じていた。

……彼と彼女の存在と
居心地の悪い、場違いな僕の後ろめたさ。
それなのに僕の視線はいつまでも、
彼女の指先から離れる事はなかった。
ちらちらと盗み見でもしているかの様な
卑屈な僕は、
彼女の指先がなぞった意識への関心を抱いたまま、
自虐的な自分を恥ずかしく思っていた。

その彼女には、笑うと立って居られなくなり、
歩けなくなる奇妙な性癖があった。
その性癖すら僕は心からあいらしく感じていた。
それで
その姿を見たいが為に、そして関心を惹く為だけに、
僕は道化者の仮面をいくつも持ち歩く様になったのだ。

僕の心はその頃から少しづつ、
僕自身も気付かぬうちに分裂し歪み始めていた。
いつしか僕にとって、
愛の究極は太宰だけとなっていった。

 僕は、あの頃に哀しくて切なく恋焦がれて泣いた。

一人よがりに告白をしている事も気付かず、
いつも僕から言い出していた。
伝える術も無いまま、
そして時だけは、全ての関係を丸め込んでいって去って行った。

太宰に傾倒していたにも関わらず
その僕はときたら、センチにも童話を書いていた。

その時の想いを今、新たに書き綴ってみよう。
紫陽花と秋桜の話として…

紫陽花の花が秋桜に恋をしました。
いつかその純粋な想いを伝えて、
一緒になる事を夢見ておりました。
そうして紫陽花は、
その想いを、日に日に募らせて行きました。
しかし、ある時、風がささやきました。
『秋桜が咲くのは、君が散ったずっと後だよ。』
すっかりのぼせあがっていた紫陽花は、
季節の違いを忘れていた事に初めて気付きました。
それからの紫陽花は、
哀しみにどんどんと青く染まって行きました。

空は同情を寄せ涙を流しました。
その涙は雨となって大地に降って行きました。
空はそんな形でしか、優しさを伝えられませんでした。
が、雨を受けた大地は、
そんな空の心根を無駄にさせない為に紫陽花の強い秋桜への想いと
哀しみを少しづつ慰め続けました。

そうして青い悲しみの色は、
いつの間にか紫陽花の花から抜けて行きました。

紫陽花は枯れた様な透き通った茶色の花となっていきました。
青い哀しみは地中深くに染み渡って行きましたが、
淡い純粋な恋心だけは大地がしっかりと受け止めておりました。

季節は、その間にも少しづつ過ぎて行きました。

丁度、秋桜が咲き始めるころ、
大地は受け止めていた紫陽花の恋心を少しづつ秋桜に伝えたのです。
それを知った秋桜は、紅に染まった花を咲かせました。
風が赤く染まった秋桜を揺らしながら、囁きました。
『季節が違う花同志は、一緒になる事は無いんだよ。』
あれから何年たった事でしょう。
それでも、紫陽花は秋桜に変わらない想いを送り続けているのです。

 僕の中で《真実の愛》とは何かが、
大きな問題となって行った。
それは精神的なものと、肉体的なものとの葛藤だった。
プラトニックとバイオレンスが、
ぶらんこに乗って大きく漕げば漕ぐ程に、
接点は瞬時に過ぎてしまう。
愛のある肉体関係と、
欲望に支配された愛のない肉体関係のある事に戸惑い続けていた。
肉体を欲するが為に愛を囁くのか、
愛の結果として肉体的交わりが生まれるのか。
その頃の僕は、
ネオン街で働いていた様々な水商売のホステス嬢との付き合いの中で、
悩みの答えを探していた。
そうして、精神的な愛とは異質な肉体の存在と、
技巧を知らされた僕は言葉を失って行ったのだった。

『愛さえあれば言葉はいらない。』と言われ、
『言葉のない関係には愛は生まれない。』事を教わった。

待ち続けた僕の中では、
再び学生時代の先輩の問いが思い出されていた。
それはこんな問いだった。

 家族三人で吊橋を渡っていると、
突然橋が崩れ濁流に飲み込まれ流されてしまった。
自分だけが偶然にも
川の中央にあった岩につかまる事ができたのだが、はたと見ると
岩を中央にして一方にはつれあいが、反対側には
子供が同じ距離で流されて行く姿が目に留まった。
今なら、どちらかひとりを助けられることができるかも知れない。

その時に一体どうするだろう。

答えなんかどうでも良い。
日々そういった状況をリアルに意識して生きているかどうか。
大切なのはそこにあったはずだった。

けれど、今の僕に新たな形でこの問いが詰め寄って来る。
もし家族ではなくて二人の異性だったらどうするつもりなのだと。
その答えの中で、岩から手を離し再び濁流に飲み込まれ、
どちらも助けない愛の無い僕が居た。

それなのにその僕が、寂しくしょげかえって
膝を抱えて他の人以上に愛を、そして肌の温もりを求めているのだ。
いつまでも安定しない塞ぎ込んだ放浪する僕の心は、
今まさに求めて止まない欲望をかかえて座り込んでいる。

いたずらに何度も手首に剃刀を当てた学生時代が、
転がり込んで来るのだ。
愛は暖かく、そして優しく美しいものなのに、
僕は彼女と手をつなぎたかった。
柔らかく唇を合わせたかった。きつく体を抱き締めたかった。
違う、本当は性行為がしたいだけなんだ。
愛を確認したいが為の、保証が欲しい為だけの、
相手を思いやる気持ちの一片もない
自分の都合だけの肉体の略奪行為があった。
そんなものの何処に愛があるんだ。
僕は本当に純粋に彼女を愛していると思っていた。
それなら何故、彼女の肉体を求めるのだろうか。
本当は、僕は彼女を心から愛していないのだ。
そんな葛藤の中で自己嫌悪に陥っていく。
愛の純粋性とは、
確認も保証も約束もない互いの肉体を貪り合い、
そして傷付けあう所にあるのじゃないだろうか。

互いの運命に深くかかわりあう行為、
かかわりあえる勇気と真実さ、真剣さと強さ、
非常識と不道徳。

そして悲劇が、
愛のように思えてならなくなってきている。
愛されなくても愛し続けるひとりよがりと、
愛のために自分の命さえ捨ててしまう愚かさ。

嫌われて捨てられて忘れ去られ
裏切られ傷付け合っても愛し続ける行為にこそ、
本当の愛が見えて来るのだ。

『愛したい。愛せない。……』それはまさに、
かつて、二十一才の時に勝手に裏切られたと思い込み、
自殺未遂した僕の感覚の想起だった。
その繰り返しの渦の中で僕は、彼女を恨み、
人間を嫌悪し、僕自身を嫌悪する。
きたなく、汚れた僕の愛。

いや、僕自身。それが虚ろな目をして
部屋の隅で再び広くて大きな海を眺めている。

僕が歌っていた『バレンタイン・デイ』と云う唄は、
少女へ告白をする少年が、バレンタイン・デイに、
事もあろうに学校の昼休み勇気を持って、クラスのみんなの前で
少女にチョコレートを渡すと、
彼女から「チョコレートは女が渡すものよ。」とたしなめられ、
クラス中の笑われ者になってしまった。
という恋の悲劇を歌っているものだった。

僕は、今もってその唄のままの
告白しか出来ないでいる様にしか思えないのだけれど、
今はホワイト・デイ或はクッキー・デイがあった。
デパートの化粧品売り場を幾つも回って、
店員さんから耳にたこが出来る程、厭と言うほど
『今年の流行色はなにがし。』と蘊蓄を聞かされながら、
何日もかけて歩く。

ひとりよがりで、決して相手に伝わらない。
無駄で愚かな行為に
純粋な愛を感じる事しか出来ない僕がそこにいる。

そして、全ての想いの結晶として選んだ口紅に、
無力で勝手な愛を託すしかないと、諦めてしまう僕がいる。

相手の彼女自身がどう感じて何を思おうと、
仕方ないと諦めてしまう僕の愚かさ。
それも一番大切な三月十四日という日から、
どんどんとかけ離れて行く中で、
「このまま逢わない方が彼女にとって幸せなのかも知れない。」なんて
一人で決め付けて、その事に縛られて苦しみ、悲しくて悲しくて
「いっそ死んだ方がましだ。」と泥沼に沈んで行く。
愛には祝福という形式や、幸せの約束や、
愛し続ける保証なんか決してないものなんだ。

だから愛イコール結婚なんて
証明の上に成り立つ肉体の交わりは、
虚しい習慣となってしまう。

それであれば、彼女の裸体を
思い浮かべる想像的強姦の方が
愛に近いのではないだろうか。
『どうしようもなく好きなんだ。』という気持ちから
始まる素朴な幻想的で、
馬鹿みたいな感性から出発する、
もろくて、あやうい愛こそが本当の様に思える。

哀しみが優しさを、切なさが
いとおしさを、やる瀬なさが慈しみを…。

たくさんの心の動きが、
心を豊かにしてくれるはずだという信念のなかで
『最後に一人だけを選びなさい。』と言われながら、
二人を得ようとする僕の罪に、
いつ天罰が下されるのだろう。

脅えながら、けがれた僕は答えを待っている。
相手からの返事をそれでも待っている。

現実感の遠のきを感じながら、
それでも死なないで、
中途半端な愛にぶら下がりながら、
哀しみに泣きながらじっと耐える事が、
格好良い事だと虚勢を張って暮らしている。

強く結ばれるはずだったのに、
最後は一人残されてぶざまな笑い者として、
道化者の仮面だけを被り続けるしかないのかも知れない。

生きてる屍と呼ばれ、太宰にもなれずに
生きるしかない僕の暮らし。
その全ての始まりは、うるさい位の
ジャズ喫茶での偶然の出逢いからだったんだ。                  
(一応の脱)


散文(批評随筆小説等) ファースト・エンカウンター Copyright 板谷みきょう 2011-12-30 10:23:04
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