夜中のピアニスト
緋月 衣瑠香


それはとてつもない絶望であり
そして希望となった

手が白い

夜中二時前のピアニスト
ショパンの英雄ポロネーズが無音を切り裂く

何かを彷彿させてから飛び出す高音
低音も楽しみ華やかさを増す
きらきらと輝く音の粒が空中でぶつかり合い弾ける

幸せでありますように
皆が皆 幸せでありますように

でもね 夜中のピアニスト
私はリストも好きなの
だからお願い マゼッパを弾いて

混沌とする世界から這い上がってくる低音
嘲笑うように踊りまわる高音
どろりとしているのに切れ味を持つ音が耳を劈く

ともに訪れる穏やかな瞬間
それは平穏でずっと続けばいいって

あなたも私もそこにいた

白い手

私もピアノを弾いていたんだ
あまり熱心ではなかったけどちゃんと音楽をしていたんだ
モーツァルトのアイネ・クライネ・ナハトムジーク
ヨハネ・シュトラウスの美しく青きドナウ
その他にも思い出せないけど弾いていた
私だってピアノを弾いていたんだ

私は掴んだ
あなたの片手首
未だに一オクターブがちゃんとおさえられない手で

そっちへ行ってはいけない!そっちはだめ!危ない!そっちへ行ったらあなたは!

でも 私はやめてしまった

私は諦めてしまった
英雄ポロネーズもマゼッパも弾こうと思うこともなく
私はピアノの前から立ち去った

似たような場所に立っていたあなた

そっちへ行ってはいけない!そっちはだめ!危ない!そっちへ行ったらあなたは!
あなたは!

“幸せになってしまう”

あまり大きなものが掴めないこの手
久々に鍵盤の上にのせてみる
動け!動くんだ!ちゃんと動いて鍵盤を弾ませるんだ!

手が白い
あなたの白い手
あなた そんな色白だったかしら

だって私があなたの手首を力一杯握って放さなかったから

手が白い
私の白い手
私 こんなに色白だったかしら

だって私があなたの手首を力一杯握って放さなかったから

夜中 摂氏三度の部屋でひとり暖も取らずにいたから

でももう大丈夫
あなたはあなたのもう片方の手首を掴んでいるあの子の手首を掴んだから
私はあなたを放さなくてはいけない
そうしたら あの子があなたを両手で温めるから
だから
あなたはあの子の手首を掴まないで
あの子と手を繋ぎ合って

私の白い手
久々に鍵盤の上にのせてみた
でも
私はアイネ・クライネもドナウも満足に弾けなかった

ねえ 夜中のピアニスト
私聴きたい曲があるの
一曲弾いてくれるかしら
ショパンでもリストでもなくて

そう ベートーヴェン
ピアノソナタ第十四番「月光」の第三章

画面越しのピアニスト
舞台照明に照らされたその白い手に私は乞う
私が一度もあったことのないピアニスト
いつその演奏をそのピアニストがしたかもわからないのに私は乞う

お願い! 
私一人のためだけに!

音楽を愛するあなたとは
クラシックを共有しそこねた

満足に動かない手
いいの 私はいいの
私にも弾ける曲は他にあるから

エルメンライヒの紡ぎ歌

幸せでありますように
皆が皆 幸せでありますように

すべてが私の意思だから

それはとてつもない絶望であり
そして希望となった


自由詩 夜中のピアニスト Copyright 緋月 衣瑠香 2011-12-29 17:10:21
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