あれは、夢か現か幻か。
風が強いあの日。
いつもと同じように帰るぼくのイアフォン越しに、
低く掠れた、重低音。
大人の男の声で何かを啜り、飲み込む音を聞いた。
何事かと周りを見渡す。
耳には切ない女性ボーカル。
ぼく、ひとり。おかしいな。
首を傾げたぼくの耳に、また。
歓喜と満足気な溜め息。
と、同時に暑い風が髪をなぶった。
まさか。ふと頭上を見上げる。
どくり。
低く流れる雨の予感。
引き摺られたようにぽかりと空いたそこから、垣間見えるのは夕刻。
朱と橙が溶けて、青から紫に色を変える空。
そこに浮かぶ、白く伸びた雲。
もとい、頸をもたげた白い龍が居た。
大きく開いた尖った口元。
鋭い爪、牙。
澱んだ雨雲を手繰り寄せ、
薄く纏まったそれを口に運び、
喉を鳴らすと、旨そうに嚥下する。
真っ白なその頬に、
ほんのり赤みがさした。
龍はそれを何度も繰り返し、
雨雲を呑む度に、息を吐く。
ぼくは暑い風に
髪を、シャツを、頬を、指先を
何度も何度も、なぶられた。
これは夢か、現か、幻か。
けれど、なんと、
蠱惑的なんだろう。
ふ、と。
ぼくの視線に気づいたのか。
龍の動きが止まる。
言い様のない恐怖心に
急いでその場から逃げ出そうと。
視線を外したその刹那
くつり。
聞き間違えでなければ。
彼が喉の奥で笑った。
予想外の反応。
首だけで彼を見上げる。
『嵐の前触れ。
暑い夏の雨雲が旨いのだ』
酔った男のそれに似た、艶のある低い声。
微かに上がった口角。
白い爪に絡めた、霞む、澱んだ黒。
朱く染まった荘厳な姿態。
見惚れるぼくの、開いた口に
運ばれる雨雲。白い爪、ひやり。
触れた瞬間、それは唇を濡らした。
雨、あめ、飴。
癖のあるそれ。なんて、甘い。
夕焼けに染まるぼくの頬、同じ。
龍が満足気に微笑する。
あ、嗚呼、嗚呼。
歪む視界。気づいてしまった。
明日にはきっと、消えるのだ。
消えてしまう。
澱みが移ってしまった
尾、髭の先、角の先端。
空に溶けて、もう見えない。
嗚呼、嗚呼。
ぼくと対照的に、龍が笑う。
くつり。
『扨、それでは。もう一献』