雑感 3
るか

レトリックと意味とに絡めて
 
 表現がある。詩は言語表現である。表現とは何かの伝達。創造とは表現さるべきものの創造。詩は創意工夫して何かを伝えようとする。現状、注視すべきはその創造さるべき何かであって、表現し伝達さるべき何かであって、共有さるべき何かであって、その手段としての修辞ではありえない。修辞の複雑化・多様化の弊害が随所にみられる。それは経済現象としてのインフレーションに正確に対応する詩的現象である。言葉のインフレの毒に酩酊し、前後不覚の浮遊状態にあって、その酩酊を肯定する言説が主流をなしている。その意味で、改めてレトリックを問うことは正しい。詩の状況は既に塔の崩壊後のバビロンである。
 詩人はいかなる外部世界(社会)からの批判にも挫折する必要はない。誰しも心を求め、感動による心の再生を求め、その向こうに心の充足を求めている。本当はそのためにーそれが最終的な目的(End)でないにせよー我々は生を営んでいる。その言語的方法が詩の制作であり、詩の受容である以外の何でありえようか。ところが、それが社会のー時代の片隅に追いやられているということは、時代が本質的なものを、自らの本来性を喪失している事実を指示しているに他ならない。
 60年代このかた、詩における形式主義偏重は極みに達している。詩=レトリックという等式は、形式主義以外のなにものでもない。むろん形式も内容も共駆して作品は成立するし、「新たな」「独自の」内容には新たな酒瓶を用意しなくてはならない。形式の是非を判断する場合には、そこに盛られている内容の新旧だけでなく、その意義をも問われるべきであろうが、そこにおける批評が著しく欠如しているのではないか。たんに新しいことは何ら価値を有さない。多くの場合、ラベルを変えた新商品の新しさに過ぎず、その抒情を底流しているものは余りに単調な叫び声に過ぎないことが問題なのだ。
 表現は関係を媒介するもの。芸術は断絶や疎隔をも含めて関係性の営み。
 新たな修辞論は関係性の領域を問うことなしには不毛に終わらざるをえないだろうと思う。修辞の受容者における認識プロセスの問題である。


散文(批評随筆小説等) 雑感 3 Copyright るか 2011-11-28 14:32:41
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