はみだしっ子たちの朗読会〜意識の表層〜詩人の仕事
馬野ミキ

明日ははみだっ子たちの朗読会があります
今年の二月から高円寺の無力無善寺で月1回、基本的に第四水曜日に開催している朗読会で、
おれたち声を出してみようぜ!
声とことばを取り戻そうぜ!という会でして、
詩人じゃなくても詩っぽくなくても、誰でも参加できます。
一人だいたい5分間の持ち時間があって、みんなのステージが終了したのちに
だいたいゲストの人が15分くらいします。時間が余っている時などは第三部を設けて
ディスカッションというか酔った人がただ勝手に前で喋るというか真剣三十代しゃべり場みたいなものが行われる場合もあります。
はみだしっ子たちの朗読会
http://page.freett.com/roudoku/

まぁでも一般的な朗読会のイメージ?からもっと自由に、
つまりぼくは、詩の朗読はじめてそろそろ2〜3年になると思うのですが
ぼくが詩の朗読を実際にはじまるまえに持っていた詩の朗読に対するイメージ
「お通夜みたい」
「サブい」
「暗い」
「敷居が高そう」
「わかりにくい」
「単純につまらない」などなど否定的なイメージ、イパーイヽ(´ー`)ノ

詩の朗読っつてもまぁ単純に言うと「声」と「ことば」であって
ぼくらは普段「ことば」を使ってものを考え、
また
「文字」(メールやチャットや新聞や日記やダイイングメッセージなど)や
「声」(ナンパや愛してるや死ねや挨拶や携帯の機種変の時にauショップの人に自分の意思を伝える時など)を使って
自分の内部を他人や世界(外部)にあらわすのですが
まぁなんていうか
日常生活のなかで声と言葉を使う時に「お通夜みたい」も「サブい」もないのに
なぜ詩の朗読になると「暗い」や「敷居が高そう」になるのか
という詩の朗読業界っていうかそんなものあるかないか知らないけれど
そういったものへの疑問が一つありましてかなりはしょって結論からいうと
自分のことを本当はつまらない奴なんだ、と信じているのに
他人に、自分はつまらなくない奴じゃないと言ってくれ!と思っている人の朗読はは本当につまらないと思います。
ステージでその人がいろいろなことを語ろうが何しようが界隈で有名だろうが権威だろうがちんこだろうがその人がこっち側に伝えているメッセヘージは「甘えさせてくれ」ということですから。「俺が見たい世界を崩さない為に君達は嘘をついてくれ」と。

詩の朗読会じゃなくてもいいけれど、どの業界でも分野でもこういう馴れ合いというのが
あれですね。そのものをゆっくりし確実につぶしますね。
で、僕は何が言いたいのかというと、その人その人がもともと持っている資質というよりも
その人その人がこの宇宙で生きるにあたって根底に何を信じているか
で、どうこの世界で具体的に実践していきたいのか
その人が誰にも見られていない時に何をしていきているか
その人はこういう境遇にあるがこれからどうしようとしているのか
というつまりその人の「人間」そのものが
やっぱり別に詩の朗読会でなくても
日常生活でも
人間は他の人間のそこにトータルな存在の魅力を感じるわけであって
(ちなみに本来、魅力的でない人間というのは一人もいないとぼくは思っている
この根底には己に対する蔑みといじけ、孤独への恐れがある)
僕は知らないですが数年前にポエトリーリーディングブームのようなものがあったらしく
ちょいちょいメディアなどに取り上げられたりしたらしいのですが
(ぼくはこの『ポエトリーリーディング』という呼び方も個人的にはあまり好きではない
尻の割れ目にうんこついているのに無理やり代官山でチワワの服を買っているようなインチキ臭さと違和感がある)
その導火線にちゃんとした火が付かずに終わったことも
上記のようなことが根本にあるんじゃないかと。
混迷の時代とかうんこの時代とか言われているけれどもう一度
・私は何が欲しいのか
・私はその為に一体どうしたらいいのか
・無理ならなぜ無理なのか
とかこういう自分の人生に直接関係のある根本的なことを「言葉」にして考える必要があるのじゃないかな、とか。

「言葉」にするとは考えることで、
「言葉」なしにぼくらは物事を考えられない。

詩人側の仕事というのは、ただおのおのが勝手に何かとシンクロして詩集作って自費出版して友人に半ば強引に売りつけるとかだけじゃなしに
社会に対して
「言葉とは役にたつものだよ」
「言葉をちゃんと使ってみるということは自分たちの利益になることなんだよ」
と、ちゃんと「言葉の先生」になって教えるということも
うん、こういうのも詩人の仕事だとぼくは思います。





散文(批評随筆小説等) はみだしっ子たちの朗読会〜意識の表層〜詩人の仕事 Copyright 馬野ミキ 2004-11-25 00:23:41
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