誤読をどう受け止めるか(作者の死の憂鬱の中で)
kaz.

しばしば、誤読は起こりうる。多くの人は、それと気づかないまま、解釈の自由性や、読者の優位性に訴え掛ける形をとって、自論を正当化しようとする。それが大きな誤りを含んでいるかどうかはさておき、自分の誤読を認めようとしない態度を評価すべきでないのは、言うまでもない。言うまでもないことであるにもかかわらず、それが起こってしまう現状を、どう考えるのか、これが主題である。

解釈の自由性、読者の優位性を主張するにあたって、しばしば用いられるのが、作者の死の観念である。だが、これも根本的な要請から外れている。そもそも、作者の死の観念は、解釈の自由さを保障するための担保だったのであり、これを誤解して、自由と責任の連関の問題にしようとするのは間違っている。ところが、作者の存在を無視し、好き勝手なことを言っていい、という主張に読み替えてしまう暴挙がまかり通っているのだ。

言葉を文字通りに受け取ることなしには、何ら読解というものをしたことにはならない。主張を文字通りに受け取る正しい読解を経て、初めてその解釈を立たせることができる。解釈を相手の主張そのものであると摩り替えてはならない。解釈はこの私の解釈にすぎず、他の誰かのものとすることはできない。その前提に従って正しい読解を提示しようとするとき、かえって作者の死が立ち上がってくるのだ。

「解釈はこの私の解釈にすぎず、他の誰かのものとすることはできない。」という今の発言は、一見すると作者の特権性、親権、父性を認めるものであるかのようだ。だがしかし、逆説的に、このことが作者の死を担保するのだ。作者の死の観念それ自体は、作者の存在を前提としなければならない。『死』は、今までのさばっていた特権性を打ち砕く形で、与えられたのであるからだ。

それにしても、私はこの読みを認めない、という異議申し立ては、失われることはないだろう。それが、誤読に対する異議申し立てである場合も、そうでないただの感情的な発言である場合も、やはり作者の特権性への主張に見えてしまうだろう。だが、作者の死を前提として考えるならば、このような異議申し立ても、解釈に対する解釈として、つまりレスポンスの読者のものと解されてしまうのだ。

この『解されてしまう』という強制力が、作者の死の観念にはある。作者の死の観念は、決して作者の感情的な反論を認めないものではないのだ。反論は認めるが、それは作者としてではなく、読者のものとしてなのだ。無責任な解釈を正当化したり、誤読を指摘されたことを認めようとしなかったりするのは、読者の態度ではない。

もちろん作者は、それを作ったということから、逃れることはできない一方で、自分の振る舞いが読者のものとして扱われるという、作者の失権を受け入れねばならない。この失権を受け入れることに、彼が作者たる所以が生まれる。失権は、もはや語る能力がない、ということを意味してはいないのだ。


散文(批評随筆小説等) 誤読をどう受け止めるか(作者の死の憂鬱の中で) Copyright kaz. 2011-11-19 13:51:54
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