バーについての記憶
日雇いくん◆hiyatQ6h0c
前から気にはなっていた。
時々、かつて住んでいた街を歩く事がある。
別居した女といた、思い出深い街だ。
何回目かの散策の時、いつのまにかその店は開店していた。
駅前から少し離れた、大通りに面した小さなビルの、なにかの小説にでも出てきそうな、小さなバー。
いかにもジャズが流れていそうな、こじゃれた店だった。
気にはなっていたが、ガラじゃないと思って、入ったことはなかった。
今年、別居をきっかけに、そのバーがある街へ戻ってきた。
その後、仲間内のヤボ用でバーに入ってみることになり、いい機会だと思い、行ってみた。
カウンターに座り、見渡す。
レモンハートに出てくる店のような、わけのわからない瓶がこれみよがしに並んでいるわけでもなく、向う側に十本ほど、天井近くにちんまりと、バーボンなどが置かれていた。マッカランらしき白い紙の円筒が妙に目立つ。
すぐ横にはキッチンがあったが、その上に、客に見えるように並べてある瓶も、たぶん大衆的なものだった。全部を知っているわけではなかったが、デザインを見ると、それほどの高級酒は見当たらなかった。
マスターも、無駄なことは言わない職人肌だった。
店内には、ウッドベースの利いたいかにもなジャズが、店に似つかわしいとは思えないテレビのバラエティ番組の音声に混じって、BGM然と流れていた。テレビとかいらねえだろうと思ったが、ふだん居酒屋しか行かない身にはまあふさわしいかもな、とあきらめることにした。
酒はアーリーを頼んだ。かなり甘いバーボンだが、若い頃から慣れている。
一緒に来た友人はビールを頼んだ。バーに入ったことがないというので、少し興奮気味だった。初めての体験は何にしても、良い悪いにかかわらず新鮮なものだ。屈託のない笑顔で、おしゃべりな男の話を聴きながら、酒を楽しんでいる。冴えない中年の、くだらないおしゃべりを聞かされる方も大変だとふと思うが、いちおう案内役でもあるし、ここはあきらめてもらうことにした。
たわいない話をいろいろとする。仲間のこと、女のこと、昔のこと。
話しながら、バブルだった頃、何回かバーに入ったことを思い出す。
新聞を見て電話をかけ、駅前に立てば、夕方過ぎには安いスナックの3軒もはしご出来るような金をもらっていた時。
気が向いて、こじゃれた店にも興味本位で入ってみた。
田舎から出てきてほどないころだったので、友達もいなかった。
だから、ただ何をするでもなく一人で酒を飲んでいるだけだったが、たまに、聞こえるような声で陰口を叩かれることがあった。まあ普段着がベトナムズボンにトレーナーだったから、きらびやかな時代にはそれがダサく思われたのだろう。下北が必要以上にオシャレとか持ち上げられる時だったし、ある意味狂った時代だった。ある時には指まで差して声を上げる女もいた。もっとも、見るからに厚化粧のろくでもない感じだったので、ガン無視で事は済んだ。
覚え切れないほどいろいろとひどい目にはあったが、過ぎてしまえばただの物語だ。もう事項としてしか、認識はされない。
そのうち話も途切れ、静かに飲む。
いつのまにかテレビはWOWOWの、音声を任意に消したであろう字幕映画に切り替わっていた。
友人はあいかわらず屈託のない笑顔で酒を楽しんでいた。わけあって今年東京に出てきた彼だったが、その時は所持金も少なく、苦しい生活だった。
それが今では、平和に、そして気軽にバーにも行けるようになった。
そのことを思うと、ただよかったなあと思う。
寒くなり、うつもひどくなって薬が増えたが、平和で楽しい時が過ごせているのだから、まあいいだろうと思えた。
頃合を見て、酒もそこそこに店を出た。
友人が、また行きましょうと、あいかわらず屈託のない笑顔を見せる。
明日は週三回のプールの日だな。
思いながら、いつかいっぱしに泳げるようになるのを夢見て、寒空を歩いた。
昨日、プールで無理をしすぎて痛めた肩が、冷えて少し疼いた。