猫の森であいましょう
済谷川蛍
「T君は仕事の疲れを二倍にも三倍にもする」
それが彼女の別れの言葉だった。明確な悲しさも寂しさも不安もなく、途方に暮れ、部屋にぽつんと取り残された自分の身体は他人のように野暮ったかった。クリスマスプレゼント用の封筒の中身の札を取り出して、やっと涙がこみ上げるような惨めな感情が湧き上がった。呆けた顔でときどき笑いながら頬を札束で叩き、バーに行くことを思いついた。シャワーを浴びて身を清めたあと化粧水をつけ、アルマーニ・コレツィオーニのジャケットを羽織り、スタンドミラーに映した自分の姿に見惚れた。封筒に貯めていた15枚の札から5枚抜いて財布に入れ、女友達のNに電話をかけた。
バー「キャッツフォレスト」。別れた彼女と聖夜を過ごそうと思っていた店。森で猫が毛づくろいしている形に象られたシンボリックな銀色のプレートはおそらく店のオーナーが特別に注文したものだ。両親のアパート経営に携わったときの経験で、こういう店の拘りに気づくようになった。待合席からNが猫のように寄ってきて「仕事帰りで化粧を直す時間もなかった」と言った。僕は彼女に横に座るように頼んだ。隣から彼女のいい匂いがした。水の入ったグラスに軽く口づけしてメニューを開き、トゥードッグスを注文した。
僕は酒を飲んで軽くため息をつき「彼女に振られた」と言うと、「ええっ」とNが驚きの声をあげた。僕は彼女から見える自分の横顔を意識した寂しげな顔をし、ニヒルな笑いも付け足した。
「どれくらい付き合ってたんだっけ」
腕を組み、うーんと唸って11月から1か月ずつ引いていく。
「……ちょうど、1年くらいだね」
僕はふいに鼻で笑った。どうして笑ったのだろうと思ったが、胸の奥から明確に現れてきた悲しみの感情は懐かしいくらいに熱く、元カノに置いていかれたのが悔しくて切なくて滑稽で、おもちゃ売り場に取り残された子供のように泣いた。
「女々しいな…」と呟き涙を拭いた。
「ちょっと、やめてよ」と怒ったような女性の声が響いた。どうやらどこかの席でカップルが揉めているようだ。
「泣くことに、男も女も関係ないよ」とNは優しく言ってくれた。ジャケットを脱ぐとNは「いい服だね」と言ってブランドショップの店員のように綺麗に畳んで向かいの席に置いた。
「ねえMくんそんなこと言わないで!」
さっきの女の語気が強まり店内が緊張がする。見渡すと他の客たちも同じように声の主を探しており、店の奥にそれらしきカップルを見つけた。
「どうしたのかな」とNが声をひそめて言った。
「別れ話じゃね」と僕は鼻で笑ってグラスを口に持っていった。酒を流し込みながら、ふと思った。こういった仕草一つ一つが処世術なのだ。様々な意識の入り組んだ身のこなしには緊張を和らげたり、虚勢や見栄を張ったり、自分の魅力のアピールが含まれている。この酒だってそんなゲスな試みに一役買っている。何より許せなかったのは、Nの前で流した涙にさえ、薄汚い思惑が含まれているということだ。抑えきれない感情さえ不実に冒されている。こういった人間に対する陳腐な嫌気を感じ、はめを外したくなってグラスの酒を一気に飲みほした。さっきまでの憂愁はどこに行ったんだ? 既に波は引き、人格は入れ替わっていた。
「なんだか吹っ切れた」
「お酒は色々忘れさせてくれるからね」
「いや、あのカップルの喧嘩見たから…」そう言って思わず噴き出すと、彼女も笑い崩れて僕の腕を軽く叩いた。こういったふとしたことへの笑いこそ人間の中でも純粋に思われる部分ではないだろうか。
「もういや!」
女のほうが店を出ていった。彼女の後ろ姿を見送って一同が安堵したような空気になったが、殺伐とした気分の僕はもっと彼女たちの喧嘩を聞いていたかった。明日にはまた平日の静かな空が広がっているかと思うと憂鬱になる。僕はまた一杯酒を注文したが、Nは遠慮した。外で救急車のサイレンが鳴り響いている。Nには明日も仕事があるが、僕には気紛れにやる日雇いしかない。彼女はもう戻ってきてくれないだろうか。店の奥で一足早くクリスマスツリーが輝いている。明日、百貨店へプレゼントを買いに行こうと決めた。頭の中で買い物の様子を思い浮かべる。女性向けのファッション誌を入念に立ち読みし、10万円くらいの洒落た小物を探し、お店でプレゼント用に包装してもらう。帰り道、僕は車に轢かれて死んでしまう……。
「嬉しそうな顔して何考えてるの」とNが首をかしげて笑った。