三月のエスカレーター
草野春心


  三月の
  まだ、少し肌寒い日
  人々のざわめきが
  どこか他人事のように響く朝
  駅へと続く道を僕が
  いつも通りに歩いていると
  巨大なエスカレーターが
  青空に向かってまっすぐ伸びていた



  何の変哲も無いやつだ
  階段の部分は、黒い長方形が重なり
  両端は、警告を示すように黄色く
  手すりは深い緑色
  何の変哲も無いやつ
  変哲があるとすればそれが
  天を突くほどに
  おそろしく巨大で、長いということ
  そして乗っている人間は誰一人いない
  目視できる範囲で言えば



  僕は
  最初の一段に足をかけようとした
  何処へ行くあてもなかったから
  けれども、その前に
  僕の影が階段に落ちたとき
  影だけが僕の足もとから切り離され
  エスカレーターに乗って
  上昇を始めてしまう



  ごとごと、
  ごとごと、
  それはゆっくり上昇してゆく
  僕だけが
  地上に取り残される
  影は
  初めは平べったく段に這っていたが
  やがてむくりと体を起こし
  黒い人形のように立ち上がり
  こちらを振り返って
  エスカレーターの前で立ち尽くす僕を
  じっと見下ろす
  僕はかれを仰ぎ見る
  かれは僕よりも少し大きくも見えるし
  僕よりも少し小さくも見える



  誰かが言う
  もたもたするなよ
  つぎはおまえの番だぜ



  影を乗せた
  エスカレーターは上昇を続け
  やがてそれは
  家々の屋根を越え
  コンビニを
  マクドナルドを越え
  ラブホテルを越え  
  高層ビルを越え
  東京タワーを
  スカイツリーを越え
  池袋を越え
  渋谷を越え新宿を越え
  高円寺のバスロータリーを越え
  赤羽駅を越え
  懐かしい
  綾瀬のアパートを越え
  東京のすべてを
  僕を
  君を
  越え  



  見えないところまで
  鳥さえも飛んでいない
  言葉ひとつ響かない
  遥か遠いところまで
  運ばれ、僕はそれをずっと
  眼で追っている
  白い雲が流れてゆく
  ここからではわからないけれど
  きっと、物凄い速度で
  もたもたするなよ
  つぎはおまえの番だぜ
  誰かが
  そう繰り返し



  僕は
  静かに首を横に振る



  そして、再び
  駅への道を歩き始める
  何処へゆくあてもないけれど
  影を、永久に喪った
  頼りない足で
  僕は歩き始める
  三月の
  まだ、少し肌寒い日
  僕の
  影よ、
  何処へでも行くがいい
  青空を見れば
  ……見ることができれば
  光が、いったい何処から差しているのか
  それぐらいは
  はっきりとわかるから
  僕には
  それで
  充分だから





自由詩 三月のエスカレーター Copyright 草野春心 2011-11-07 09:28:41
notebook Home 戻る