近所での小さな争い
殿岡秀秋

日曜日、妻が駐車場に面したわが家の塀を指さす。そこにコンクリートの粉が詰まった袋がたてかけてある。
近所の男がゴミ置き場にだしたものだ。しかし、ゴミ回収車がもっていかなかった。別の近所の人が、それを彼の家にもどしたところ、言い争いになったという。
そして昨日、彼が我が家の塀にその袋をたてかけた、と妻は言う。
もどしておこうか、とぼくが言うと、だれがもどしたか勝手に憶測して文句を言うから、他の人に迷惑がかかるわ。あなたが直接言わなければだめよ、と妻が言う。
ぼくが男に言わなければならない。男は道路を挟んだ筋向いの家にひっこしてきた。男には家族のような支えあう人がいない。男は孤独の癒し方をしらない、とぼくは想った。男は近所の婦人たちをからかって嫌われ、その夫たちに怒鳴られていた。
ぼくも怒鳴らなければならないのか。その場面を想像して暗い気分になった。本当にこの袋は、何が何でも彼の家にもどさなければならないものなのだろうか。
聖書では「右の頬を打たれたら左の頬を出せ」という。この言葉をこの場にあてはめたらどうなるのか。
コンクリートの袋をそのまま立てさせておく。そして燃えないゴミの日にもっていってもらうようにする。
ぼくが燃えないゴミの袋にいれてあげる。しかし、燃えないゴミの袋にくらべてコンクリートの袋は大きすぎる。ゴミ回収業者はもっていかないだろう。ならば市の指定業者に頼んで、有料で引き取ってもらう。市に連絡するのもお金を払うのもぼくだ。
とてもそこまでやってあげる気になれない。そもそもぼくはキリスト教徒じゃない。
それでは男に怒鳴るのか。彼の耳元で大声をあげる作戦をたてる。仕事の帰りに男が駐車場で車をおりたときに、ぼくは素早くちかよって、彼の側面に立つ。そして「自分のゴミは自分で処理しろ」と叫ぶのだ。耳の穴は突然の大声を防ぐことができない。彼の胸の底まで衝撃が伝わるだろう。効果は確かだ。その結果、コンクリートの袋は撤去されるかもしれないが、彼から恨まれることになるだろう。
どんな反論がかえってくるかわからない。ここはおれが借りている駐車場だ、と言うかもしれない。男が借りている場所は敷地の奥で、駐車場の出入り口にあるぼくの家の塀の前ではない。この塀は我が家のものだと返すしかない。
それからどうなるか。展開を想像しているだけで、締まらない水道の蛇口から水滴が滴るように暗い気分がこころに溜っていく。
どうせやらなければならないなら、はやくすませてしまおう。
男はなかなか帰ってこない。とうとう夜になった。彼が酔っ払って帰ってきたら、気が大きくなっていて、面倒なことになるかもしれない。今夜は怒鳴ることは止めよう。
ひとりになっても、いつものように文章を書く気がおきない。仕方なく読みかけの本をひらく。そこには、
「なるべく喧嘩しないで平穏にくらしましょう」と書いてある。
そうなのか、喧嘩をしない方がいいのか。ぼくは近所の男と喧嘩しようと身構えている。男の耳元で怒鳴ることばかり考えている。そうしなければ男が言うことを聞かないと決めこんでいる。
しかし、怒鳴らなくても、注意して直させるという方法もあるのではないか。だが、それで解決するかどうかはわからない。言ってみなければ、どんな反応がかえってくるかわからない。
たったこれだけのことで、文章を書くことができなくなる。自分は弱い奴だとおもう。居間にいって、冷蔵庫からビールをだして飲む。テレビでは今日一日のニュースを伝えている。我が家ではニュースになるようなことはなかった。
翌朝、外をみる。男はまだ出てきていない。二階のベランダから男の家をみると、玄関はまだ開いていない。妻がベッドで動く気配がした。ぼくはそこにいってマッサージをする。整体師に教わったとおりに妻の太腿を踏む。
それからベランダに戻ると、男の家の玄関があいている。ぼくはいそいで黒い上下のトレーナーに着替える。頚に手ぬぐいをまいて、運動靴をはいて表へ出る。
男は玄関にでて庭にある盆栽の葉をつまんでいる。
「おはよう」
ぼくは低い声で言った。男がふりむいた
「ちょっとこっちへ来てくれませんか」
ぼくはあくまで穏やかに言った。男は少し驚いたようだが、すぐに玄関にはいって、出勤用の黒い鞄を肩にさげてでてきた
男は何か、という顔をしている。ぼくは意識したわけではないが、一瞬、男をにらみつけたかもしれない。
四メーター道路をはさんだゴミ置き場へ男を誘導する。その隣のぼくの家の塀を指差す。
「このゴミはおたくのでしょう」
「コンクリートが固まってしまったんだよ」
「ここはうちの塀だよ」
「ああ悪かったね」
意外にも男は簡単にあやまった。すぐにセメントの袋をもって男はゴミ置き場へ移した。
「それはゴミ業者が回収しなかったんじゃない」
ぼくの言葉に男は振り向いて、
「燃えないゴミの袋にいれればよかったんだよ」
とこたえた
「その日までここにおいておくの」
とぼくがいうと、男は少し考えて、自分の家の前の道路にもっていって、袋を投げた。
ぼくはそれでいいとおもって家に帰る。近所の奥さんたちが遠くで見ている。まだ寝ている妻に、
「終ったよ」
と告げながら、背広に着替える。
出勤のために家を出ると、投げられた袋は男の家の塀に立てかけてある。男が直したのだろう。ぼくはそのまま駅まで歩く。無事におわってからだから力がぬけていく。
こういうことがとても大きな問題になるのはどうしてだろう。些細なことで大いに悩んでしまう。人生にはもっと大問題があるようにみえて、実際には、こんなことで神経をすりつぶしている。それでも無事片づいたので、ほっとして温かい珈琲を飲む。



自由詩 近所での小さな争い Copyright 殿岡秀秋 2011-10-20 06:04:03
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