ボクのマスターベーション(1)
花形新次
ボクが文章を書こうと思う契機は単純なものです。
大概は、ボクの外側に転がっている、ちょうどそこにあるもの、今流れている音楽、たまたま目に入った人や景色といったものが発端になっていて、ボクの内側に長い時間存在する心的な問題が契機になってということは殆どない。
そもそもボクには、書かなければならないことなど何もない。
人生上の問題なんて、偉い哲学者や文学者がとっくの昔にあらかた提起してくれているし、ボクが偉い人々に先んじて何か新しい問題を見つけ出すなんて、自分の能力を考えれば有り得ないことを重々承知しているから。
ボクには17歳になる自閉症の息子がいて、そのことが判明したときは人生上の大問題と捉えたこともあったけれど、それですら今は、「子を持てば誰しも心配の種は尽きないという意味で、障害があろうがなかろうが、まあそんなに大差はないよな。」と思えるようになった。(そう思えるようになるまでの自分のダメさ加減については、かつて文章に書いたことがあります。)
だからボクは、「さあ、今から世の中を唸らせてやるぞ。」などと大上段に構えて、ものを書いたことがない。(というか、書けません。)
下手なりに「文章を書くことが好き。」というのが前提にあって、あとは、音楽を聴いて、映画を見て、本を読んで、たまにテレビを見て、あるいは家の近くの海岸を息子と散歩して、そのときふと目に付いたこと、思いついたことを書くだけだ。ちょっとだけ下品な味付けをして。(ちょっとだけじゃないか)
だから、ボクの文章はそれを読んだ人(そんなに多くはない)なら知っていると思うけれど、下手くそで実につまらない代物でしかないです。ある種の人にとっては、下品な味付けも手伝って、まさに唾棄すべきものにさえなっているような気がする、というか絶対そうです。実際言われたこともあるし。だから、本当は人様に見せてはいけないと思う。自分のPCのマイドキュメントに「詩・その他」とかいうフォルダを作ってひっそりと保管しておくのが好ましいのかなとも。しかしそれでも公開してしまう。それは何故だろうかと考えると・・・・・やっぱり誰かに読んでもらいたいという気持ちがあるんですね。それは隠してはいけないことで、隠したらすべてが嘘になってしまう。そう、一人でもいい、自分の書いたものが誰かの目に触れ、良いと思われる(殆どないけれど)にしろ悪いと思われるにしろ、誰かと何らかの接点ができたらいいなと思っているんだ。
それ以上のことは期待していないし、期待してはいけないとも思う。
それでも最初の頃は、「こんなの公開したら怒られちゃうよなあ。いいのかなあ。」なんて躊躇していたんだけれど、今はそんな気持ちも薄れて、それこそ厚顔無恥を地でいくようになってしまいました。その点は反省ですね。
で、なんでこんな文章を書く気になったのかというと、某作家の書いた軽いエッセイを読んでたら、一丁俺も、といった感じで、ちょっと真似したくなったもんで。デヘヘヘ。