前奏曲
メチターチェリ
京都行きの高速バスの中から窓の外を眺めていた
水色の空に、バケツの水をこぼしたような薄くくぐもった天気は、近く雨の気配を漂わせていた
褪めた空は高速道路の風景の無機質性をいや増しに強めているような気がした
ぼくはトルストイの『悪魔』を開いていて、ふと酔いの予感を感じると文庫を閉じて窓外に目を転じる
そんな読書をしていた
春休みにほど早い平日の車内は乗客がまばらだった
後ろの席には誰もいなかったが、ぼくは座席のリクライニングを倒す必要をいつも認めない
メモリ・プレイヤーのイヤホンはドビュッシーの『ベルガマスク組曲』を奏でていた
「前奏曲」を三度続けて聴き、ようやく「メヌエット」に移るというのがしばらくの鑑賞スタイルになっていた
主人公が愛人に再び激しい欲情を感じてしまう場面まで読むと、目を閉じて、自らのことについて考えてみた
ぼくは主人公の気持ちになってみようとした
しかし、感じられたのは漠然とした不安と、幸福な者が不幸な者に対して抱くような仄白んだ憐みだけだった
彼女の踊りは上手なのだろう 彼には何一つ目に入らなかった
酔いの間隔は次第に短くなってきて、ぼくはとうとう読書を投げ出した
午前十時に出発したバスは正午を過ぎて京都駅に到着した
ステップを降りたら初春の風が冷たく、ポケットに手袋を入れ損ねて来たのに気づいた
新鮮な風を身体全身で浴びて、不純な空気を洗い流そうと
しかし、駅前の空気は排ガスが多いに違いない
耳元ではモニク・アースがドビュッシーを弾き続けていた
地下鉄に乗り継ぎ地上に出たときには、空から最初の雨粒が落ち始めていた
緩慢な雨足はこのまま歩いて街路をわたり、目的地に辿り着くまでの時間を許してくれるだろう
界隈は京都と聞いて憧れる町屋風情の軒並みではなかったが、少し路地を入れば見つけられるかもしれない
人々の足取りも心なしか穏やかな気がした
もっとも、これはぼくの先入見が強いのだ
午後の雑踏は開かれた傘の数を増しながらそれぞれの屋根へと急いでいる
大学はぐるりを黒い鉄柵で囲まれ、正門の一辺には桜の木が植えられていた
花はまだ頑なに蕾のまま、来るべき本当の春を待ち構えている
さながら、早すぎることも遅すぎることも許されず、咲くべき機を逸しまいと絶えず緊張しているかのように
案内をもう一度確かめてから、背が高く大仰な校門をくぐった
この日ぼくは、大学生協が紹介する物件を借りるために京都に来ていた
休日のキャンパスは広く清潔で、人の姿はない
いくつかの瀟洒な棟が雨のなかで眠っていた
右手には人工的な池があり、左手には芝生の禿げた中庭と大型スクリーンがあった
しつらえられた緑があり、講堂らしき建物があり、十メートル置きにベンチが置いてあった
公立校にしか通ったことのないぼくにとって、視界に映るその光景はいくらか背伸びをしているようにみえた
レンガ敷きの広場を歩きながら、閑散とした構内が普段どれだけの人で埋められるのか想像してみた
多くの人に相応して、この空間には大きな喧騒が渦巻いている
大学生としての自由を、皆それぞれに味わいながら
しかし、今この光景を目にしてしまった以上、ぼくは大学での日常をこなしていくうちも、ことあるごとにこの静寂を慮るだろう
高校三年の春、恋をしていた
満ち足りていたぼくにとって、大学に通うという実感はそのようにして訪れた