彼女の海
ゆえ




飛沫が冷たく飛び回る、橙から深い青に変わっていくグラデーションの下で。
静かに流れ続ける。僕と彼女の存在する痕跡が、透明な潮鳴りによって覆われていく。


海へ行こう、と言ったのは彼女だった。


別段彼女に何かあったわけではない。それは事実であるはずだし、事実であって欲しいと願っていた。
そうでないならば、一体何が、無垢な存在に作用しているというのだろう。
突然黙りこくってしまった彼女に、戸惑いながらも視線を向ける。
ざあざあと響き続ける音の中で、彼女は立ち止まっていた。


ああ、


こういう風になってしまうのは、今に限ったことではないのだ。
今まで何度も、言ってしまえばここに来るたびに、彼女はこうして黙ったまま波打ち際を歩き回った。


さく、さく、さく


彼女が砂浜を踏みしめる音と、僕の呼吸が交差する。
僕は深呼吸を繰り返す、僕は深呼吸を繰り返す。
取り留めの無い歩みをやめることなく。


彼女は、埋没している。

そこには今、彼女一人だけが存在している。
彼女はただひたすら繰り返し、繰り返し、彼女の世界を歩き続ける。
彼女の中に僕は居ない。
僕は存在していない。
前にも、後ろにも、―――もちろん隣にも。



何百回目かの深呼吸をする。


僕は彼女の周りに纏わりつく空気を、少しでも肺に落とし込もうとする。
深く吸って、息を止めて、収縮する器官の中に彼女を取り込もうとする。
植物のように。細胞のように。世界のように。
何度も。
何度も。


彼女は眩しそうに目を細めて遠くを見つめている。


僕の中で何かが膨張する。
一杯に膨らんで、やがては萎んでいく。
波が打ち寄せる、満ちては引き、途切れることなく続いていく。

彼女の中で何かが構築される。
高く緻密に構築され、やがては破壊される。
彼女は想像する、創造する、それを自らの手で粉々に砕く。



その瞬間の彼女はいつも、僕を止め処なく独りにさせる。
いつか僕は思い知るのだ。
海を見ている彼女の手を、掴むことが出来ない、その理由を。




潮鳴りが聞こえる。
彼女が振り向く、僕がいつも見ている笑顔で、もう帰ろうか、と言う。
僕は、そうだね、と頷く。


砂浜を出て、来た道を引き返す。
目の前で彼女の細い腕が揺れている。
そっと指を絡めてみる。彼女が握り返す。



僕は深呼吸をする。
強い風に押されて、足が前へと動き出していく。




自由詩 彼女の海 Copyright ゆえ 2011-09-30 19:31:26
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