梅田周辺
メチターチェリ
生魚。アボガド、漬物、南国フルーツ、関西風のうすあじ味噌汁に、脂ののった肉々しい肉。
トマトゼリー。イカとタコ、噛みごたえのある食感はゴムの域を出ない。
その他甲殻類。レーズン、あんこ、辛いモノ、苦いモノ。
納豆。
「私は腐ったものを食べ物と認めない」
「豆腐もダメ?」
「豆腐は白いからいいの」
「それとチーズもね」ぼくは、カレードリアにたっぷりのパルメザンチーズを振り掛ける紀子を見て言った。
カレードリアは元からチーズと一緒に焼かれていて、ぼくの見立てでは既に十分にマイルドだった。
「まだちょっと辛いよね!」と言い訳するみたいに、笑いながら紀子が言った。誰からも好かれるだろう感じのいい笑顔。ぼくもやはり、紀子の笑顔が好きである。
昼下がり。映画を観終わったぼくらは、阪急梅田駅近くの喫茶店で遅めの昼食を食べていた。
外は雨で、傘をさす人の群れが途切れることなく続いている。
満員の店内で、タバコを吸わないぼくらは喫煙席に座り、映画の感想、最近の仕事の苦労話や、友人の結婚式の話をしていた。
話しをするのはおもに紀子の役目だった。ぼくは活き活きとした彼女の語り口に耳を傾けていた。
今日に限らず、出会ってから多くの時間をぼくらはそのように会話して過ごした。紀子が話し、ぼくが聴く。
彼女の話は実感がこもっていてとても上手だったし、ぼくは相手が誰によらず聴く立場になることが多かった。
極めて自然な配役だったのである。
「それで結局、ご祝儀の受け付けさせられるはめになってまって。仕事でも売上げの集計やで、そのうえ友達の結婚式でもご祝儀の管理任せられて。『もうどうでもいいや!』って感じ」
「なんだってわざわざ忙しい人間に頼むんだろう?」少なからぬ憤りを込めてぼくは言った。
「まあ信頼されとるんやろね。やからしょうがないかって。いいの、一人でやるわけじゃないから」
ぼくはその言葉に応える術を持たない。
隣の席には中年の夫婦が座っていた。大丸の紙袋を両脇に、ヒョウ柄を身にまとった妻が夫に向かって何やら軽快に喋っている。
話が途切れると、注文していたビールを二人一緒に飲んだ。昼下がりの休日。
ビール。炭酸飲料、ショウガ、マーマレード、香草。
その他、癖のある食べ物の多くにぼくは気をつかう必要がある。
それらはすべて紀子の苦手な食べ物だ。
「パクチー」
「え?」
「言ってみただけ」
紀子が首を傾げて困惑するそぶりを見せるので、ぼくも一緒になって傾げてみる。
「困った子」紀子が言った。
雨靄に包まれた都会の気配が好きである。
ここから見ると空は灰色で、いつもより固そうな雲が、屹立する梅田スカイビルのてっぺんを重く撫でつけているようだ。
昼を済ませたぼくらは、一つの傘に身を寄せて信号を待っていた。
「昨日の夜、会社帰りに下見に来たの」紀子が言った。「あそこの空中庭園寄って景色観てた」
「怖くなかった?」紀子は高所恐怖症である。
「うん。でも綺麗だったよ」
「雨の都会には独特の気配がある」寂しいような、落ち着くような。景色は静かで、活動の光が健気だけど、どこか心をざわつかせる。
「味があるよね」
「味というか、感応するんだ。その気配に。気配自体が複雑な思いを抱えてる気がする。なんというか、言葉が足りないのかもしれないけど……」
「分かると思う」紀子が答えた。「でも明日は晴れてもらう! 洗濯ができない!」
「うん」
その後、ぼくらはウィンドウショッピングをし、ジョイポリスで遊び、夕食を食べて、カラオケをした。カラオケを終えたのは九時過ぎで、紀子は疲れているようだった。
「眠そうだ」
「大丈夫!」
「昨日は結局寝られてないんじゃない?」結婚式とか、仕事とか、家の件で。
「楽しみにしてたからさ! ほら、遠足の前の日に寝られなくなるでしょ? あれと同じ」
「ということは、やっぱり寝てないのは事実なんじゃ……」
「ぐぬ」
紀子について、ぼくが知らないことは多い。
彼女は自分のことを多く語ってくれたが、ある境界以上のことについては、決して語ろうとしなかった。
もちろん、語られない部分の中にこそ紀子がいた。
彼女が意図して見せてくれる、晴れの部分に触れるのは心地よかった。
しかし、ぼくが抱いている親密さは、それだけで満たされることはないのである。
「知りもしないことに、どうして親密になれるの?」彼女は言うだろう。
ブドウ、ナッツ、モンブラン、干渉。好きなものより嫌いなものが増えていく。
帰りの地下鉄を待つあいだ、なにか言葉を探してみた。案の定なにも出て来なかった。ぼくは感傷的な気持ちになっていたので、なにかを言うと楽しかった今日を台無しにしてしまいそうな気がしたのである。
「おやすみ」彼女が言った。
「おやすみ。ちゃんと寝るんだよ」手を離し、電車に乗り込む。