友達をたくさん
はだいろ
レイディオを聞いていたら、
モンゴルの自然の現況から見て、
人類が環境的に持ちこたえられるのは、
あと数十年だろう。
ということだった。
数十年といっても、
二十年と九十年では、大違いだとは思うけれど、
ちょっと、
先月までの自分とは、もちろん感じることが違ってしまう。
まだ、病院のベッドから起き上がれない彼女に、
予定日も聞いたことがないのだけれど、
たぶん、妊娠9週目くらいに入る。
朝、満員電車に乗っていても、
なぜ、日本という国は、
こんなに狭く窮屈なのだろうと実にふしぎに思う。
三連休は、
毎日病院へ行って、
それから、寄席へ行って、
今日は、寄席へは行かずに、
ニックロウの新しいレコードを買って帰った。
給料日まであと3日なので、
小銭を計算して、たぶん、なんとかなるだろうと思った。
落語の世界と、ヤクザの世界は、よく似ているそうで、
上下関係の厳しさは、
ぼくは、それがどうしてもだめで、
だから、部活とかもできないし、
お笑いも、見ている分にはいいけれど、
ああいう、先輩後輩みたいのは、絶対に中には入れない。
日本人に向いていないと思う。
前々から、ぼくは、自分が、アイルランド人だったという気がしていて、
たぶん、
そうだったのではないかと、よくこのごろまた思う。
それで、
満員電車のなかで、
おじさんや、若者や、自分自身を映してみても、
みんな、さかのぼれば、
一個の精子だったのだと考えると、
お父さんやお母さんが、
その誕生を、
どんなに喜んだか、
いまはこんなにくたびれていても、
生まれる前はどこにいたとしても、
人間関係にがんじがらめになっていても、
もういちど、
おめでとう、と、ひとりひとりの手を取りたくなる。
モンゴルの自然から、
あと人類が数十年しか生き延びられないとしても、
ぼくは、
生まれてくる命に、やっぱり、
おめでとうと言いたい。
人類の終わりを、ぼくは見届けることができないかもしれない。
きみが、見ることになるのかもしれない。
だけど、
それを、止めることができるのも、きみなのかもしれない。
ぼくは、
ぼくの子供が、もし、できるとしたら。
男の子でも、女の子でもいい。
ぼくとは違い、
友達が、たくさんいる大人になってほしい。
友達を大切にしてほしい。
たったひとつだけ、そう願う。