を
salco

 あたしが初めてそいつに会ったのは、学校に上がってからでしてね。
 昔の親は貧乏に忙しくて、幼稚園児に弁当持たせるので手一杯。湯気立て
て遊ぶ子ども捕まえて、字なんか仕込む趣味もありませんでしたから。
 入学式の翌日、近所の兄さん姉さんに学校へ連れて行かれますと、それま
で晴れがましさ一辺倒だったのが俄かに心細くなって、獄へでも曳かれるよ
うでした。

 でもあなた、机の上には色鮮やかな数のお道具が置かれてありましたよ。
竹ひごやら小さな積木やらね。気鬱がいくらかぽーんとお空の方へ飛びまし
たねえ。
 それに真新しい教科書が何か、自分専用の斬新な野っ原でもしまっている
みたいに、きちんと重ねて置かれてますでしょ。ドキドキしながらめくろう
かめくるまいか指先で触ってみたり、叱られるんじゃないかと表紙の質感に
注目してみたり。それだけで全部がわかった気になりましてね。

 あたしゃ毬みたいに優しい顔の先生も気に入りました。
 チビだったもンですから、式の入場では先頭で手もつないでもらいました
し、こんだ教壇の真ん前の席で。先生もきっと自分を一番気に入ったンだと
思いましてね、勉学に励もうと決心したわけです。まあ、その日は何が何だ
かわからない内に終わっちまいましたが。


 まず、あ という字。次に お という字が気に入りましたね。子どもは
皆そうでしょ? あ は赤、お は群青に見えました。い は黄色、う は
砂色、え は明るい緑で。
 か は濃いぃ緋色なンですが、音も形も何か、意地の悪い気がしますな。
き は浅黄でチビですが、神経質でピリピリしています。さ は性質がよう
ござンすな、水色で伸びやかで。た も若草の元気者で跳びはねましょう?
 な行はどれも落ち着いています。な は茶、に はうぐいす、ぬ はこげ
茶、ね は黄土、の は赤紫。 ま は桃色で、しながあって書くのになかな
か難渋です。
 紫紺の も はよろしうござンすよ。ぶら下がっている茄子みたいな愛嬌
があって、鉛筆も滑りがようござンす。し じゃ物足りない。何べん書いて
もあたしは飽きませんでした。下の丸みが重みを湛えていて、そこからシュ
ッ、とこう、空へ跳ね上がる処が楽しいですな。あたしはそれで、書き順を
変えちまいました。チョンチョン、シュッです。キッカケの拍子木に、仕上
げは助六の見得の感じでね。


 そんなある日、「ぅお」と言いながら先生が黒板に を と大書きしたン
です。
 何だい、変な字。
 と最初は思っただけですが、見ている内に何かこう、心がざわついて参り
ましてね。腹を押さえて身構えてるみてえな、何か見上げて何か言いかけて
る男の横顔みてえな、キョリキョリしたその線を手元の帳面に書きますと、
紙にしれーっと染み込んで、それから浮き上がって見えるンです。じっと見
つめておりましても、他の字と違って、色や音が一向現われません。
 何度も黒板のと見比べましたよ。すると、白墨で書いたのより自分が鉛筆
で描いた方が薄気味悪く、始末に困るのがわかりました。
 だってあなた、鉛筆色じゃないンです。漆黒で、こんな大きさなのに、白
い帳面の全体を支配しちまったンですから。温度もありません。ただそこに
ぬうと突っ立っている。
 こいつは魔だ。
 慌てて帳面を伏せました。
 心臓が早鐘のようで、それが首筋でも打つもンですから、体が冷たくこわ
ばりましてね。消しごむで挑む勇気もありませんでした。表紙と裏表紙をこ
う、両腕で押さえつけまして、ん と先生が新しく大きく描くのを、救いの
ように見上げております。それで、先生がにこやかに振り向いた時には胸が
痛んで、優しいその顔も涙の底にぼーっと遠のいていましたっけ。

 いえいえ、他の字と一緒に書くのはいいンです。他の字の方が多ござんし
ょ? 多勢に無勢でさ。それに、組み合わさって物事になりましょう? 
「あお」とか「あか」とか、「はな」とか「いぬ」とか。すると、を はす
っかり縮かんじまいますからね、気にもなりませんや。単一で書くこともな
し。それを知ってからは、あたしゃすっかり安堵のていで学校に通ったもン
です。夜の宿題だって、もうへっちゃらでさ。 
 それに算数も理科もござンしょ? 社会も。ものの道理や仕組みがわかっ
て行くというのは、子どもの味方ですよあなた。

                            
                            つづく 


散文(批評随筆小説等)  を Copyright salco 2011-09-11 22:36:29
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