船に乗る
吉田ぐんじょう

陽も暮れきった午後六時
買い物メモを持って靴を履く
切れているのは醤油
それから時計に入れる乾電池
八時には夫が帰宅するので
急がないといけない
台所にはやりかけのパズルが広げてある
電灯はつけっぱなしにしてゆくつもりだ
テーブルを片づけて電灯を消して
カーテンを閉めてから出かけると
帰ってきたときがらんとした寂しさを感じる
まるでわたしが不在だった間に
そこに
容易には埋められない
ぽっかりした穴があいてしまったかのように
まあそんなことはどうでもよいのだけれど

ドアを開ける

そこには
いつもの見慣れた階段ではなく
霧深い海が広がっていて
大きな白い客船が停泊していた
いつかの夢で乗り損なってしまった船だった
顔の部分が陰になって見えない船員がわたしを手招いている
混乱したが同時に
以前から決まっていたことであるような気もした
船員に近寄って
もう出発するのですか
わたしにはまだ用事があるのですが、と言う
船員はそれには答えずに腕時計を確認し
大事なものをひとつだけ持ってきていいですよ、と静かに言った
家に戻って部屋の中を見回し
少し考えた末に
パズルのピースをひとつ
ポケットの中へ滑り込ませた
電灯はつけっぱなしにしておく
カーテンもわざと少し開けてゆく
わたしの不在が
そんなに大した問題ではないように見えることを願って

ドアを開ける

二時間後に帰宅する夫は
永遠に完成しないパズルのある
時計の止まった
醤油のない台所で
立ち尽くしたりするだろうか
わたしの不在を埋めるように
パズルの続きをするだろうか
そうして最後のピースが足りないと気づくとき
わたしを思い出したりするかもしれない

船が動き出すまでの間
これまでのことを
ゆっくりと丁寧に思い出す
音のしないようそっと眼を閉じる

汽笛が鳴る



自由詩 船に乗る Copyright 吉田ぐんじょう 2011-09-09 20:11:00縦
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