日本人に、ロックはできるか
番田
日本語によってロックを演奏することは不可能であると長い間言われ続けてきたように、日本人による芸術表現の可能性などまずあり得ないということが想起されるのはなぜだろう。そもそも、この国には宗教も哲学といったものなど存在しなかった。そういったことは、一体、何故なのか。もともとそのようなことは欧米でやられ続けてきた事柄の一つであり、戦後になってからやっと日本に取り入れられてきたものばかりなのである。確かに、戦後の経済成長によって、私たちの暮らしは豊かになった。しかし同時に英語や数学、様々な教育や概念といったものも私たちには与えられた。しかしその多くは日本人である私たちとは全く何の関係もないものが大半だったのである。
*
メディアによる働きかけのようなものによって、私たちは村上春樹を世界的な文学者の一人であると勘違いし、川端康成を著名な小説家であるのだと勘違いすることが数多くある。しかもそのことを主張すること自体がすでに非国民のように思われるのが当然なのだといえるモラルの状況にもなっている。現実としてノーベル賞を授かろうがアメリカ人の誰一人として村上春樹のことも村上隆のことも関心を持ってなどいないのである。それよりも、彼らにとってはもっと過去に存在した偉大な作家たちの方が気にかかるということこそが真実である。アンディウォーホルもそうであろうし、ピカソや、モナリザといったものこそが雛形のような存在であるということが言える。
日本という国を外国が捉えようとする時に必ず出てくるのが 忍者やサムライといったわかりやすい形象だが、そこに人の名前が全く出てこないのが不思議である。それに対して欧米には数多くの印象に残るクリエイターたちが存在する。しかしアジアや中東などに目を向けると、そういった人間は本当に数少ないのだということがよくわかる。そういったことをふまえて先ほどの日本語によるロックが可能なのかという問題を振り返った時、それは不可能なのだということが良くわかってくる。ロックというものは英語で歌われるのが自然なのである。そして日本人によるロックなど絶対に不可能なのだということも同時に理解することができる。