言葉によるスケッチの実験性
中川達矢

絶えないノイズが、右の部屋から、左の部屋から、そう、絶えず、聞こえてくる、スピーカーを通した、ノイズのような、ノイズが、両側から、いまいるここに、ここ、ここはつまり、じぶんのへやだった、このノイズを聞いているのは、この言葉を紡いでいる対象と、ノイズを聞いている対象のぶつかり合い、同一性の保持、その証明は、どうしたらできるのか、逃れられないものが、ノイズから、逃れられない、中で、つまり、ノイズを聞いているのが、「俺」だとは、誰が、誰を、認識しているのか、うるさい、そう発する声を、両側の部屋から聞こえるノイズが、認識するのか、存在を問うのではなく、存在の存在については、前提条件としてしまった、西洋哲学者、だけど、「俺」は哲学者でもない、と言ったところで、誰がその情報を信用するのか、以前の問題、誰がその声を聞くのか、ノイズは聞こえるのに、ノイズは聞いてもらえない、「俺」が描く情景、そこには「俺」がいない、つまり、多くが、主観によって描かれているのであり、客観は存在しない、客観を牛耳るのは、「俺」でもなく、主観である、身につけた、イマジネーションを駆使して、情報を伝えようとする、絵画、小説、詩歌、戯曲、音楽、法律、イデオロギー、そう、世の中は、記号によって支配されている、言語ではない、目だけではない、その匂いは、ほとんどが酸素、炭素、水素、窒素、塩素、硫黄の化合物だろう、記号と記号の組み合わせ、目に頼りすぎな描写には飽きた、いま、ここで、ノイズがきこえる、その描写に、目は必要ではないが、記号が必要だ、記号を食べ、記号を飲み、記号を過ごし、記号の下に逝く、末は、回帰、とらわれびと、「俺」が、「俺」を支配する、ノイズを感じなければ、よかった、「俺」の支配の脱却の手段、脱構築、「俺」は、「俺」ではない、その方法があった、つまり、どうあがいても、ノイズを、読者に届けられない、その無力さが、伝わってしまう、そう書いてしまえば、読みを狭めてしまうだろう、結論が著されたら、その結論で脱構築すれば、とらわれない、結論のノイズ性、そこに、詩の美学があるという結論を述べてしまう「俺」に絶えずノイズが襲ってくることを読者の人には伝わったのだろうか、眠れない


自由詩 言葉によるスケッチの実験性 Copyright 中川達矢 2011-08-24 16:14:57
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