薔薇の男
春日線香

1
彼女が死んで数世紀。その影響は長く後世におよび、もはや彼女を知らない人は皆無といえる。しかし具体的に何をやったかは知られていない。忘れられた偉大なる事績を記念するために伝記を書きたいがどうか、と台所の本人に訊ねると「プライベートに触れないなら」と快諾してくれた。
 
 
2
これは不思議な井戸だ。石を落とすと、なぜか背中に石をぶつけられる。見張りを立ててどこから石が飛んでくるのか見極めようとしてもわからない。以前、土地の造成のために井戸を埋める計画があった。だが井戸に土砂を落とした瞬間、猛烈な土石流が作業員を襲い、計画は頓挫した。
 
 
3
彼は夏でも厚い外套を着て、顔に包帯を巻き、藁のような髪で目を隠していた。ある時、酒に酔った若者が彼に難癖をつけた。「一体どんな顔をしているんだ?」 蹴り倒した彼に馬乗りになり、包帯を引き剥がす。しかしそこには何もなかった。ただ芳しい薔薇の香りが辺りに広がった。
 
 
4
列車が過ぎたあと、線路には無数の黄色い卵が残されていた。高台にあるこの場所には陽光が降り注ぎ、温められた卵は次々と孵化していく。生まれたのは白い肌の女の子で、互いに粘液にまみれた体を抱いていたかと思うと、身の内から湧き上がる怒りを感じ、復讐のために丘を下った。
 
 
5
見張りの目をかすめて外に出た。土砂降りの中、道を進む。と、前方の林の陰に明かりが見え隠れする。あそこまで行けば逃げ切れる。明かりに向かって一目散に走る。ふと気付くと、服の端からほつれた糸が伸びている。何だ?と思った次の瞬間、途方もない力で身体が引き戻される。


散文(批評随筆小説等) 薔薇の男 Copyright 春日線香 2011-08-22 05:20:27
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