そこには誰もいない
yo-yo
騒がしさの中に、静けさがある。見える声と、見えない声がまじる。
出かける人たちや帰ってくる人たち。生きてる人たちが遠くへ行き、死んだ人たちが遠くから帰ってくる。
生きてる人と死んだ人が、見えないどこかで交錯する。
行ったり来たりして、人生の半分を失ったみたいだ。
祖父も祖母もとっくに死んだ。叔父や叔母もほとんど居ない。若いいとこや親友までも、すでに幾人か逝ってしまう。
近しい人たちが、半分になった。
ごっちゃに集まるお盆の夜は、ご詠歌と鉦のひびき。父の声は祖父にそっくり、伯父の声は父にそっくりだった。
いまはもう、3人とも居ない。彼らに似た声の誰かが、また鉦をたたき、ご詠歌をあげているのだろう。
大阪の実家は、融通念仏宗。家をでた父の墓は、九州の山奥で法華宗。四国をでて九州で死んだ祖父は、真言宗から法華宗に。
お墓参りの念仏も、南無阿彌陀仏か南無妙法蓮華経かでややこしい。
念珠の形までうるさかった人たちも、いまはもう墓の中で眠っている。
おかげで、お盆は静かだったり、騒がしかったりする。
周りがだんだん静かになって、記憶の声だけが騒がしくなる。みんな、声が大きかったのだろう。
流浪する家系が流浪する。蝉時雨の道を歩いていて、ふと父の声に振りかえる。だが、そこには誰もいない。