放浪の俳人・種田山頭火の、
昭和8年(1933年)10月15日の日記。
私は酒が好きであり水もまた好きである。昨日までは酒が水よりも好きであった。今日は酒が好きな程度に於て水も好きである。明日は水が酒よりも好きになるかも知れない。
この夏は私も、もっぱら水ばかり飲んでいる。
へうへうとして水を味ふ、のは山頭火。冷蔵庫で冷した水を、ごくごくと飲むのは私。
体にたまった水は、やがて頭のてっぺんから足の指先まで、汗になって噴き出す。水という形のないものが、形のないままに、体の中を素通りして流れだす。
行雲流水、雲はゆき水はながれる。私の体も雲の管になって、ただ水を流す。早朝の公園を歩く、私は放浪する水だ。
公園には、男が住みついている。
男は大きな犬を連れている。首輪もリードもついている。ある朝たぶん、男と犬はいつものように散歩に出た。そしてそれきり、元の家に帰ることはなかった。
この3年の間で、犬はますます立派になり、男は薄汚れて小さくなった。
男は、芝草の斜面に愛犬と並んで座り、悠然と遠くの山を眺めている。犬は、テリトリーをしっかり守っている。近づくと吠える。いつのまにかふたりは、公園の風景を所有してしまった。
何を求める風の中ゆく、山頭火は歩く。
朝の公園も、いろいろな人が歩いている。それぞれに、何かを求めているようにみえる。
あるけば草の実すわれば草の実。水の汗をかきかき、ただ草の実を集めているのかもしれない。
樹下石上。公園の草むらをねぐらにすれば、日々の公園をよぎる散歩者も、風の中の放浪者だろう。
酒よりも水が好きなわけではないが、夏はひたすら、飲んで流して歩く。水は無味無臭、体に残らず拘泥することもない。
ただ歩く。歩々到着。一歩一歩どこかにたどり着き、一歩一歩また遠ざかる。放浪する身には、酒よりも水の方がふさわしい。
体じゅうから水をふり撒き、あげく犬に吠えられ公園を脱出する。
どうしやうもないわたしが歩いてゐる。
*『山頭火句集』から数句引用しました。