殺人の否定
salco

人は何故、殺すのか
人は何故、殺せないのか
普通の者は
殺される側への意識的感応で踏み止まる
が、普通の人間も
対象を下位に置く精神操作なしで、人は殺せるのだ
相手を敵、脅威と見做さずとも、同等と見做しても殺し得る
大義一つで優位の者も、憎悪感情なしでも殺し得る
「命の大切さ」などという
文房具程度の概念では調服できない領域がある
生存本能は必然的に快をしか求めない
その強い衝動は、彼此の弁別や
「人生を棒に振る」刑罰への怯えだけでは抑制し切れないものだ

ところが殺戮が正義とされる唯一の場で
過酷な新兵訓練を経て徹底的に自意識を矯正されたにも拘らず
引鉄さえ引けない兵士が一定の割合で出るという
第二次世界大戦後、アメリカ軍は
条件反射化の徹底を図り射撃訓練を逐次改善して来たが
それでも尚
死地で命令系統から脱落する「臆病者」を駆逐できないという
この不思議な現象は無論
宗教観念や思想信念の縛めによるのではない
恐らくそれより深い精神域に
「チキン」の自己相対化とも言うべき制御が局面的反応として起こり
状況の如何では揺るがぬ為だと考えられている
通常、この共感作用は
「ヒューマニズム」などという理念に含まれてしまうが
共食いへの拒絶反応、回避行動は文律ではないのだ

すると、自己保存の放棄
倫理以前に、「殺せぬ」人の潜在意識にはこれが常在しているのではないか
心理以前の肉塊として敢えて歯牙に差し出す「弱き自分」であり続けること
これも人間性の主柱だろう
「死刑にされたいから殺った」とうそぶく荒川沖駅殺傷事件の坊やは
これを自力で負えなかった
というよりも、無意識的にも自己保存を突き崩せなかったと言えまいか
不適合の劣等感にまみれる程度の絶望では普通、自殺できない
寧ろ彼は、社会的無能者としての自分に暫時優位をくれる捕食者の視野
その記憶が欲しかったのではないか
自己処刑の法的援助などその表彰状でしかない
仮想現実としか関係を結べぬ青年期が既に懲罰房だったのだから
実は「殺し勝った」という一時の
力関係の錯誤的逆転を今生の手土産にしたかったのではないか
殺人を自己目的のツールとする時点で既に「勝ち」狙いだ

この度のノルウェーの男も大同小異だろう
大量殺人で体制や世論を変えられるものはでない
頭の良さそうな男だから百も承知だろう
世間に挑み、己が思想や信条をマスに伝道したいのなら
政治家やカルトの教祖にでもなるのが結局は近道だ
ところがヒトラーやビンラーディンのカリスマも人望もない男に
できる自己実現といえば
血まみれの一里塚で世人の忘却を免れる事ぐらいしかない
でかい一仕事の後は累犯事件と手紙にささやかな賛同者を見出して
かつて一島の絶対者として君臨した自己像への供物にでもするのだろう
勝利記憶という栄光は
どんなに卑小であろうと、一過性の記銘に終わらぬ事は
カウンターでくだ巻く小者なんかがよく教えてくれる
あの夏の金メダルの燦然
経験的自己確信の陶酔

無論、人間は社会的政治的動物だ
「殺さずに済む」状況など永劫顕現しはしない
また「殺さない」事が果たして正しいのか
誰にも実証できはしない
それでも殺す側の論理に与する自分でありたくないのなら
手を下せば何ぴとにも修復できない生命の唯一性に
何らかの価値を各々見出して
それを胸に掻き抱いて行くしかないのだ
この殺戮の野に在って、何と貧しく脆い檻か

共食いの連鎖は断てない
この攻撃本能は脳幹域に属するからだ
例えば「見て見ぬふり」=自己防衛にでも
相互に入り組みながら隣接しているのかも知れない
この欲求を溢出させ、満足させるのは意外とた易い
敵がい心や性交で我々は日常これと遊んでいる
間脳のダクトからのその風を受け、胸を高鳴らせている
けれどいざ、現実にその場へ立ち至った時は
殺生の選択を突きつけられた時は
自らを餌食の側に投げ込んで連座だけは免れる
そんな事しかできない

内なる捕食者から己が「チキン」域を守る為に
大脳新皮質の全域を弱者の領土とすること
世界の序列に於いて常に常に
丸腰の、下位の、無力の者を不可侵の聖域とすること
これさえ意識下で行なえば
山羊の皮を被った狼でしかないのかも知れない
偽善の手になる堤防は精巧なハリボテだ
そんなものは夕立一つで崩れ去る

ならば自分が最貧の最弱者になるより法はないだろう
蹂躙に身を任せる覚悟が私にはあるか
そんな勇気はとても出ない
殺戮の境界から飛びのく自己保存
は、偽善者の言い訳、苦しい言い逃れで満ち満ちて
それでも人道を語る資格があるか
瞥見した光景や上梓済の概念を語るのは何よりた易い
だが人柱として楯としての実行性を伴わぬ時
それは実に
豚のいななきに等しいのだ


自由詩 殺人の否定 Copyright salco 2011-07-27 00:19:04
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