祈りの言葉
yo-yo
祈ってあげてください。
とつぜん、そんなメールをもらった。
かれが重篤だという。
かれは もう ひとりの みちを あるいている…
かれのことを、詩友といっていいかどうかわからない。
ネットで詩の投稿をしている仲間、と呼んだ方がいいのだろうか。
いや、友でも仲間でもないけれど、ときにはもっと近しい。
かれの言葉は、ぼくの魂にとどく。
ネットでは言葉で交流する。だから言葉で祈る。けれども、ぼくは祈ることに慣れていない。祈る言葉も見つからない。
祈るきもちで、かれの詩にアクセスする。
言葉が触れてくる。こころの深いところから深いところに。
言葉の手が合掌している。祈りの言葉は、かれの詩の中にあった。
詩を書くということは、祈りかもしれない。
幸せになりたい、幸せにしてあげたい、悲しみや苦しみから逃れたい、できれば楽しく明るく生きたい、純粋な気持になりたい、なにが真実であるか知りたい、本当の美しさを見つけたい。
さまざまな願いを込めて、かれも言葉をさがしたのだろう。
その行為こそ、祈りではなかったか。
かれの言葉が語りかけてきた。
かれの眼は、どんな世界を見ようとし、かれの手は、どんな世界に触れようとしていたのだろうか。
祈っているのは、かれの言葉だった。
きみの 眼で 世界を 見たい と おもい
きみの 手で 世界に ふれたい と おもう