聞こえない谷へゆきたい
榊 慧
水で濡れたタイルに爪を立てるが、突き上げられる振動で到底姿勢など保っていられない、ずるずると崩れながら孕んだ言葉を産み落とす。バスタブは反対側だ、もう掴むものはない。後ろの人体とつながっているまま浴室の床に伏した、腰は人体が支えていた。
自分の体から出た何か、か、それとも石鹸の泡か、判らないものが擦れてさらに泡立って、尻から太股に流れていってる気がする。……そんな気がする、だけ。シャワーによって水滴も汗も涙も涎もリンパ液血液も全部一緒くたになってながれていってしまってる。だから実際どうなってるのかは分からないアタリマエ、誰も知らない、今この世界で誰も知らない。アタリマエ。
請求された言葉を返しとして吐き掛ける。ロックナンバーを叩いてください。
「くだけてしまえ!」
すえたにおいに混じって、内側から胃液のすっぱいのが、
「誰かよりましな人でありたい」。
二:
じきに夕立が終わる、どこかぬるぬるした風、はあそこのハイツの、例の部屋、からかな。
……束縛される、誰が、壊したの。知らない、知らない、俺を、やめて、俺を、疑わないで、いやだ、やめて。……束縛して暗転して束縛して暗転して束縛して、髪がからまる、
柔らかい皮下脂肪はスクランブルエッグ状、右足の小指でつたわり震える誰、誰、誰、「?」
「どっちみち 百年たてば 誰もいない」。