うん  
遙洋



殴ろうとしてあげた右腕をふりおろそうとすると
空気の抵抗にあたるさきからさらさらと砂のようになってかすんでしまった
なくなった利き手に呆然としながら、彼女をみると
殴ろうとしていた先の左ほおのあたりが、かすんで判然としない
彼女はほほえんでいる
痛くない?
という問いが、彼女にとどくまえにさらさらと砂のようにかすんでしまった
いいえ、とこたえるはずの彼女は、言葉を知らない人のようにほほえんでいる
彼女はほほえんでいる
そうか
なかったことだこれは
僕は殴らなかったし、彼女は殴られなかったから
僕は問わなくてもよいし、彼女も返答するための言葉を必要としない
そうか、と僕は考える
なかったことを僕は感謝したい、と思いながら
彼女にあゆみよろうとして、
僕は足がないことに気づくし、それから腿や臀部や腹、背中も
輪郭をうしなってゆくのを見る
彼女はどうしてるかというと、彼女は、ほほえんでいるのでもなく
いないのだ
それにしても、彼女はほほえんでいる、というのは
どういうことなんだろう、それはどういうことだろう
そうか
なかったことだこれは
僕は生まれなかったし、彼女はいなかったのだから
僕はいなくていいし、彼女もいなくてよく、お互いを
説明するための言葉も必要としない
そうか、と空白はうなずいている


(うん   







自由詩 うん   Copyright 遙洋 2011-06-12 23:10:56
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