特別のこと
はるな
うちには菜箸が何膳かある。菜箸のことも、一膳、二膳、と数えるのがただしいのだろうか。うちにある菜箸は、どれも似た格好なので、どの組み合わせでもつかえる。一本二本と数えるほうがしっくりとくるような感じがする。
菜箸は、ほかの器具(たとえばフライ返しとか、おたまとか、たまにしか使わないトングとか)と一緒に、洗った缶詰に立てている。缶詰はトマトの水煮缶で、英語でなにか書いてある。ふたを切り取って、よく洗って使っていたら、危ないからと恋人がふちにビニールテープをぐるりと巻いてくれた。
そういうふうに、物事は思いがけない唐突さで特別なものになってしまう。ふちを覆うビニールテープ。どんなに気をつけていても、そういうのは事故みたいなもので、防ぎきれない。たとえばそのビニールテープをいまからわたしがはがしてしまったとしても、手遅れだ。特別は、防ぎきれない。
しかしながら、それが物であればまだいい。どうしようもないのは、ふとした音や、煙の行き先や、においや、温度だ。生活のなかに、どうしても存在するありふれたものが、あるときに、ある人といると特別なものになってしまう。そうして、その瞬間だけでは終わらずに、何度もわたしにそれを思い起こさせる。何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も、薄皮を剥くような懐かしさのなかで、いつもかなしみをひきつれている。
たぶんそのように特別なものの特別たるゆえんは、それがもうここには無いということが大きいからだ。もうここにはなくて、それでも愛しいもの。望んでも手には入らないのに、もう忘れてしまえばいいよとどんなに念じても忘れ得ないもの。わたしの特別な思い出なら、いつもかなしい。
淀んでいないで、ここにある生活を守らなければならない、と、いつも思う。考えるのだ。大事にすべきものを、きちんと捕まえていること。大事にし続けるということ。あまり過去に引き戻されないように、注意して、いまある時間をただそのものとしてすごせるように。
でもそのときには、どんな覚悟もおよそ役にはたたない。
季節がゆくのも雨がふるのも、ゆれる洗濯物、夕食の匂い、煙草の煙のゆくえも、それは今ここにあるものなのだよと、どんなに強くわかっていても、転がるような空白のなかには、かなしみを孕んだ「特別なこと」を見出してしまう。
それに抗うことが正しいのかどうかわからない。でもここで生活をしていくには、それらに抗うことはどうしても重要で必要なことだと感じている。
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