飛ぶ鳥,落ちる鳥(鋭角と季節のはじめ、台風の間)
はるな

ドアーが開いたときにあなたはそこに立っていたのですか.わたしは気がつきませんでした、ドアーはいつ開いたのですか.ドアーが開いたときにはまだあなたはそこに立っていなかったというのですか.ドアーは誰によって開かれたのですか.物事が直立する午後に、わたしはドアーが開いていることに気がついた、成されるべき物事は半分皮を剥かれたまま、早積みの桃のように青く転がっている.

髪が伸びました.背も.爪も.昼も伸びました.季節がゆきました、たくさんの物事を抜きにして、また、たくさんのあらゆる物事を新しく含んで.

ドアーはいつ開いたのですか?鳥が飛んでゆきます.夕暮れです.はげしい雨に洗われた空の天辺は藍色に、裾野にはくすんで赤みを帯びた雲が絡まっています.わたしは呼び声を待ちました、ずっと待ちました、望みました、待ちました.声はわたしを呼びません.未だ、呼ばれていないだけです.

わたしはあるとき恐ろしい一つの考えを持つようになりました.それは、わたしがあなたを愛しているかもしれないということです.初めにその考えに行き当たったときは、ぞっとして、わたしはうろうろとドアーを開けたり閉めたり、放り投げたり、煮込んだりしました.いまその考えはわたしの中の箪笥にひっそりと納まっています.その箪笥はたぶん、とても危険なもののひとつです.わたしにとって.わたしはその箪笥を、大抵は自分の意思で開けたり閉めたりできます、しかし、ある状況のなかではわたしの意志は役に立ちません、それは、箪笥の開閉に限ったことではないのです.だから心配する必要はあまり無いです.それは、多くの物事と同じように、ある不安を孕んだひとつの考えに過ぎないのだから.

わたしはかつて、わたし自身のなかにドアーを持ってはいなかった.それはいつのときも人間には必要なドアーです.だけどわたしはそれを持っていなかった時期がある.

いまは違います、わたしはドアーを持っています、わたしはそこからわたし自身を出したり、いれたりすることができます.ただ、誰かがそこから入ってくるかどうかということは、わたしの関与できる部分ではありません.わたしが入ってくることを望むとき、わたしに入ってくることを望む人間がいなければそれは叶えられないし、わたしが入ってくることを望まないときであっても、わたしの願望とは関係なく入ってくるものは入ってくるのだから.わたしに出来ることは、可能な限りその開閉を自分の意思と結びつけることです.それよりほかに手立てはありません、また、これはドアーに限ったことではないのかもしれないと、近頃では考えるようになりました.

窓からは明かりが見られるようになります.そうです.それが夕暮れです.ときたま開いている窓の近くを通り過ぎると、ささやかな煮炊きの音と匂いを得られます.背骨をゆっくりと温められるような心地がそこにはある.わたしはふいに気づく、ドアーを通じることなしに、世界を知ることは出来ないと思っていた時期があった、でもいつのまにかその時期は終わり、わたしは他人の窓越しに経験を得ることができる.それが取るに足らないものであっても.

風の強さに喜びながら、素肌が通過していきます.黒髪も、白いシャツも、水を弾くように新鮮な季節です.何もかもが正しく配置された路地裏です.斑の猫を見ました.

こんな午後に、物事は遠くにあります.それは等しく、わたしは許しを思います.わたしはいつだって許されたかったのです.遠さは、許しと少し似ています.あきらめではなく、諦められたわたし自身に関して.
不幸な物事は、存外世の中に散らばっている.出されない手紙や、色を知らない絵筆や、発酵に失敗したパン種、螺子の切れた時計、手付かずで冷め切った紅茶、蕾のまま落ちた雛菊.それらはどうしてこの世にあるものとして生み出されたのだろう、何のために、どの時間のために、それらは存在したのだろう?

かなしみを分け合うことを、時には優しさと言い、それはたしかに必要な歯車のひとつです.優しさや、それに付随するかなしみは、どうしても必要なもののひとつです.でも、あまり心配することはない.かなしみはなくならない.だからたぶん優しさもなくならない.ひとは、分け合えねば生きていかれないから.わざわざ手を差し出す愚かさを知るのは、このドアーを誰かに壊して欲しいと願うことと、どれほどの違いがあるだろうか.

わたしたちにとって幸運なことのひとつには、値打ちのつけがたいものがまだまだたくさん存在するということかもしれない.鳥の飛ぶ軌跡も、その年にはじめてかく汗も、カーテンのゆれる速度にも、あらゆるものに価値はあるけれども、それがどの程度の価値かを決めることはいつも難しい、ひとによってぜんぜん違うから.場所によっても、時期によっても、ぜんぜん違っているから.

はやくドアーを開けて入ってきてください.わたしが気づいたときには、すでにもうそこにいてください.だから、そのときまでわたしは顔をあげません.でもわたしは、もうずっと気づいています、俯いたこの状況は、多くの困難を頭上にかわせるけれども、また多くの機会を、こぼれおちる水滴のように逃し続けることに、わたしはもうずっと気づいています.だけれど、多くの子守唄がやさしすぎて、いまだに顔を上げられずにいます.はやくドアーを開けて入ってきてください.



自由詩 飛ぶ鳥,落ちる鳥(鋭角と季節のはじめ、台風の間) Copyright はるな 2011-05-30 19:17:27
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