詩の周りを巡って
非在の虹
詩作品に論理的明晰さを求めるのには、無理がある。
詩はいつも割り切れない部分、釈然としない、あえて言えば、詩作品の澱のような所にある。
(詩と詩作品を分けて考えている。
「詩」とは詩の内実。
「詩作品」は文章の形式として。詩を入れる器として)
では詩人もまた非論理的なものだろうか。
少なくとも、自身の詩作については論理的であるべきだ。
何が詩か。何が詩として、もっとも優れた形か。
すなわち、何がテクストを詩たらしめるのか。
実はそれは個人個人の問題だ。
彼方にとっての詩であっても、此方には詩でないかも知れない。
そのことについて、議論はできる。
しかし非難は当たらないだろう。
詩人たらんとするならば、「私」にとっての「詩」を論理的に、明晰に語れるべきだろう。
しかし、詩人にそのような、作品制作以外の義務を負わせたのは、古い話ではない。
面倒な事になった、と言えるが、それが「現代の詩人」の宿命である。
日本に生まれて、日本語で作品を書いているのに、海外の事情も酌む必要も出来てしまった。
私たちは、最早「古今」や俳諧や漢詩の美に通づるだけでは、詩の美を語れなくなったのだ。