作るに関する覚書と考察
はるな
写真を撮らなくなって一年ほど経った。しかし少しまた絵を描くようになって、カメラを使っているときにはほとんど絵を描いていなかった、文章だけはいつのときも書いている。
物事をおこなう上で(ここでは創作に絞って話すとしよう)、実にさまざまな動機や手法がある。動機に関して言えば、昔ロックバンド(多分銀杏BOYZの峯田君だったと思う)のボーカルが、「喜びのエネルギーでものを作る人もいるが、負のエネルギーでしかものを作れない人もいる」と言っていたのを聞いて、ふむ、と納得した覚えがある。全ての人がとは言えないだろうけれど、物をつくるひとは大抵このどちらかに分けられると思う。
もちろんそのどちらも(喜びでも、悲しみでも)をエネルギーにするよという人は多いだろうが、根底はどちらかに分けられるはずだ。
世界に触れる(≒生きている)喜びをえがく人と、世界に触れられない(≒生きている)不安や苦しみをえがく人と。これは性質であって、なかなか変えることができない。
私は後者なのだが、だから、生活が順調に行っているときはわざわざ撮ったり描いたりしなくてもいい。なにかをつくるということ自体が、(その手法がなんであれ)苦しみを吐き出すツールなので、苦しみが無ければものをつくるエネルギーもないわけだ。
とはいえ、ある作品を作り終えたからといってその苦しみが解消されるかというと、そうではない場合のほうが多い。それは問題の解決ではないからだ。
「わたしはこれがこうだから苦しいです、これこれこうしたらその苦しみは解消できます」と、普通の大人なら言葉にして言うだろう。言わずとも理解してその解消のために働きかけるだろう。ところが、わたしときたらその能力が著しく欠如しているのだ。
まず多くの場合において、何がどうして苦しいのかがわからない。だからどうしたらそれが解消するのかもわからない。時によって弱まったり強まったりする不安があり、さまざまな理由でそれが増減する。
写真において師事していた人は、それをまず明確にすべきだと私に言った。文章におこしてみなさいと。そうして、どうしたらそれが解消できるのかどうかを導いて、そのためにはどのような手段でそれを視覚化するか、を考えなさいと。さらに写真で表現するのだから、出来るだけ新鮮で、美しいビジュアルを作りなさいと。
その手法は私にはあっていた。物事を少しずつ明確にしていく感じは、とても気持ちが良いものだったし、自分の問題を理解することは、生きていくうえで役に立つことでもあったからだ。そうして学生時代のわたしは、ある問題を問いかける言葉の代わりになり得るものとして、写真を撮っていた。
ただそれだけでは、問題はまったく解決しなかった。
なぜなら、わたし自身の問題は、つくることや生きること以上に、人と関わるということが強く関係していたからだ。
いくつかの作品を作り終えて、わたしはやっとそれに気づいた。何も終わっていなかったのだということ。わたしは、わたし自身を誰かと関係させなければいけなかったのだ。そのための作品であることを、わたしはすっかり忘れていた。どんなに新鮮な写真がそこにあっても、それを介して何事かを語りかけることが出来なければ、その作品は完成されなかった。めまぐるしく生み出される多くの写真の中で、日々の中で、いつの間にか私にとっての作品としての写真はそういう役割でしかなくなってしまった。
もちろん写真を撮ることは今でもある。ただそれは記録の域を出ない。
記録、でもそれはすごく大事なことだ。それはひとつではあまり意味を持たない。集合して、時が流れたときにほんとうに大切なものになる。わたしはそのとき特別な感情はあまり持たない。あるということで十分なのだ。わたしにとっての絵も、大抵そういうものだ。それは指先と紙と鉛筆の記録であって、今のわたしの作品ではない。時間がそれを作品にしてくれることもあるけれど、それは稀な例だ。
文章に関しては、どちらもある。
ここにはポイント制度というものがあるけれど、不思議なのは、作品としての文章と、記録としての文章とでは、記録としての文章のほうが高評価だということだ。それだけ、わたしの創作は独りよがりなのだろう。でもそれは吐き出されるべきものなのだ。
水のようなものを作ってみたい、と思っている。
写真でも、絵でも、文章でも、彫刻でも、何でもいい。
匂いのない、清潔な、水のようなものを作ってみたい。
悲しみでも喜びでもなく、感謝でも怒りでもなく、苛立ちでも愉しさでもないもののように。
その場所はまだ遥かに遠く、いつまでたってもたどり着けないほどに思える。
人生で何度かそういう作品に触れたことがある。ひとつは文章で、ひとつは絵画だった。いちばん最近にみたものは写真だった。それは静かで情熱的で、苦悩に満ち溢れているかと思えば流れるように穏やかで、さいごにはあらゆるものを孕みながらなお静謐な作品たちだった。膨大な時間が費やされ、それをまた同じだけかけて削ぎ落としたような作品だ。いつか、自分の手で、そういうものたちに出会いたい。