電話のこと
はるな


昼間に、いくつか電話をかけた。仕事のための電話と、連絡、それから遠くにいる友人と、誕生日を迎えた男の子に。
恋人からは、いちにちに何度か電話がかかってくる。きちんとご飯を食べている?とか、洗濯物は取り込んだか、とか、生きているか、とか。少しずつ嘘をつきながら、(たとえば、ご飯はもう食べたよ、とか、洗濯物はさっき取り込んだ、とか、掃除機もかけた、とか、とか、とか。)
そうして、さっきから鶏肉を似ている。たちこめる醤油と酢のにおい。

お前には無理だよ。
電話口での、友人の声を思い浮かべている。
女の子で、すごくしたしい、ある時期には恋をしていた、女の子だ。たくましくて、すごくやせていて、端整な顔だちをしている。指が長くて、ハイライト・メンソールを吸っていて、お酒が好きで、肝臓を悪くしている。
お前には無理だよ。早く戻っておいで。
たのしむような口調。
無理なのかもしれない、と、だから思ってしまう。
鶏肉、台所、窓からみえる干しっぱなしの洗濯物、しみわたる夕焼け。
嘘をついている気持ちになる。
あるいはなにもかもが嘘で、ほんとうではないのだという気持ち。
それはでも、突然思うことではなくて、もうずっとここにある。ただ忘れていただけなのだ。日々があまりにも安寧で、すこし死に似ていて。忘れてはいけないのに、忘れていただけなのだ。

往来を通る車のナンバープレートは、見慣れない土地の名前ばかり。でも季節ごとに咲く花は、だいたい変わらない。日の落ちる時間も、のぼる時間も。大通りに立ち並ぶのは見慣れたチェーン店と、大型スーパー。小学生の頬は柔らかく、自転車は勇敢。ではなにが変わったのだろう?こんなところまで来てしまったのに。
お前には無理だよ。
でも、ためしてみたかったのだ。自分にはぜんぜんふさわしくないような環境を、手に入れてみたかった。でもそれはぜんぜん手に入らなかった。それは、そうだ、その場に相応しい自分になることでしか、手に入れられない類のものだった。
早く戻っておいで。
それでも、帰る場所はここになってしまった。そのことを言ったら、友人は、笑うだろうか。



散文(批評随筆小説等) 電話のこと Copyright はるな 2011-04-25 17:28:53
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