押したい背中
森の猫
マリ子は中学生の時バレーボール部に入っていた。人気のアニメに感化され友人の雪と一緒に入部した。新入部員はボールなど触らせてもらえない、ひたすら校庭の走りとバレーの基本姿勢を覚える。その中には、腕立て伏せならぬ、指立て伏せがあった。他の部員たちは、平気で5本の指をグランドにぐっと立て10回20回とこなしていたが、マリ子にはできなかった、指が立たないどころか腕立て伏せもままならない。
「高橋さん、指立てできないの。それなら、
腕立てやって。指立てできるように練習してきてね、基本なんだから」
3年の部長酒井先輩は、半ば馬鹿にしたような口調で言った。その隣には憧れている、芸能人のような東先輩がクスクス笑っていたのだ、マリ子はどうしょうもなく惨めで情けなかった。入部早々マリ子は、出来ない指立て伏せを無理にやっていて、左親指を捻挫してしまった。無論練習はできず、ボール拾いに専念した。
そのことがあってから、マリ子のバレー部での3年間は悲惨なものだった。いじめにあったのだ。所詮、バレーボール向きの体質ではなかったのだ、ローテーシーションさえろくに覚えられない、交替で出た試合では骨折する、こんな選手は使いものにならない。
マリ子の頭の中には、入部当時しごかれた酒井先輩の大きくて脂肪のたっぷり付いた肩から背中がまるで山のようにのしかかっていた。それは、中学を卒業して勤めに出ても抜けなかった。憎しみとは違う、でも街を歩き前に酒井先輩に似た背中を見ると後ろから、人差指でプスッと押してみたい衝動に駆られるようになった。まだ試してみたことはないが、きっとそれはパック詰めされたトマトをラップの上から押す感触に似ているのだと思う。「押したい、押してみたい」特に女性たちが薄着になる、春から夏にかけてその衝動は強くなる。
マリ子はあまり女性的な体型ではない。どちらかというと、寸胴の幼児体型だが標準サイズなので、ピタッとしたアンサンブルのニットもすんなり着こなすことができた。寸胴は気になるので、いつもふわっとしたトップスを好んで着ていた。最近のデザインは何で体型をあらわにするものが多いんだろう、そしてそれらを老いも若きも、普通もぽっちゃり・・いや年中ダイエット挑戦中の小太り体型の人も着るのだろう。もっと、自分に合ったものを着ればいいのに。ま、個人の自由ではあるが・・・
マリ子の今の会社は都内でも千葉に近く、通勤には片道1時間半はかかった。それも、電車とバスを乗り継ぐ。おまけに年がら年中残業がある。ボーナスまであと十日、もう少しがんばればお金も夏の休暇も手に入る。頭ではそう励ましても、体はクタクタだった。
JRから私鉄に乗り換える途中なんだか、めまいがしてきた。
その時、マリ子の目の前にアノ脂肪のたっぷり付いた山のような背中があった。マリ子は押したい衝動を抑えられず、ついに押してしまった。「プシュー」と音がして、その膨らんだ背中は、風船のように萎みどこかへ飛んでいってしまった。マリ子はなんだか達成感のようなほっとした気持ちでいっぱいになった。
「大丈夫ですか、お客さん」
緑の制服の駅員がマリ子の体を支えて、耳元で意識の確認をしていた。何事もなかったように駅に入る電車は、「プシュー」っと音をたて分刻みでやってくる。そこは乗り換えのA駅のホームだった。正気に戻ったマリ子の右指は、かちっと人差指を指していた。