準備のこと
はるな


あしたの準備、というものをしないで寝る子どもだった。宿題も、時間割も、着る服もほとんど準備しないで寝てしまった。かといって、早起きするわけでもなく、だから毎朝、わたしは兵士のようにごたごたと用意するしかなかった。でも着る服なんてそうは溢れていなかったし(機能的であればそれで良かった)、宿題は朝礼がはじまる前に終えることができた。
それが、いつからか、準備をしないということが、恐怖になった。ほんとうにいつからだろう。うちに帰ったら、次の日の持ち物をまず整える。夕食を摂りながら、マニキュアが剥がれていたらすっかり落としてしまうし、着ていく洋服を思い浮かべて、次に塗る色を決める。ごみの日をたしかめて、ごみをまとめ、新しいごみ袋をセットする。入浴を終えて、管理しているインターネットサイトを閲覧して、お財布の中身を確かめる。うちへ帰って、寝るまでの時間は、ほとんどすべて明日のために使われる。ほんとうに、いつの間にそうなったのだろう。
準備がある、というのは、こころの安らかさだ。「準備」というもののもつ意味は、そのときどきによっても変わるけれど。
たとえば、少しまえまで、それはお金のことでもあった。わたしはカードを持たないので、現金を常にもっているということが大事だった。少なすぎても不安だし、多すぎてもいけない。街でふと目にしたワンピースが気に入ったら、いつでも一着は買えるくらいの金額がちょうどよかった。
あるいは、男の子。心細くてしかたがないときに、電話をかけられるような。深夜でも、早朝でも、電話をかけて、タイミングがよければ来てくれるような。それでいて、相手が出なくても、まあいいか、と思えるような。いつでもここに来てくれる、という身軽さよりも、いつ電話をかけても向こうの負担にはならない、という気軽さが重要だった。そういう男の子が、いつのときにも二人か三人、いればわたしのこころは安泰なのだった。
ほんとうにいつからだろう?

わたしはいまや、衝動的に洋服を買ったりしないし、朝の四時半に身勝手な電話をかけたりは、ほとんどしない(もちろん、さすがに今だって稀にそういうこともある)。それはもうわたしに必要な「準備」ではなくなったのだ。

夕方、彼はうちへ帰る三十分から一時間ほど前に電話を寄越す。わたしはそれにあわせて、スープが温まるよう計算して、テーブルを整える。洗濯物はみな所定の位置に畳んでしまってあるし、床は磨かれている。昼間に書いた文や絵は彼の目の届かないところへしまってあるし、玄関の靴もみな靴箱へ納めてある。肉や魚は彼の顔をみてから焼けばちょうど良いし、バスタブもあとはお湯を張るだけ。彼の帰りにあわせて、わたしの「準備」は整えられる。

たぶん、わたしの「あした」は、いつの間にかどこかへいってしまったのだ。もともとなかったのかもしれない。時間の感覚が、人とはすこし違っているのに気づいたのは、ずいぶんたってからだった。準備ができないのも、準備ができないことで恐怖を感じることも、あるいは「準備」でさえない、自分の安定に必要な物事を整えることも。たぶん、ほかの人々の準備とは、ちょっと意味が違っている。でもべつにそれは憂うことではないし、今日と明日の区別に劣っているからといって、生きていく準備をしないわけにはいかないのだ。
ただ、それが「準備」であるからには、目的がどこかに設けられているはずだ。それがわからないまま闇雲に準備してしまうから、こうなるのだろうか。
わたしの安心のために、一日を準備で終えてしまうことって、意味あるのかしら。

そうは思いつつも、葱をきざみ、豚肉を蒸して、彼の帰りにぴったり合うように食卓を整える。準備が間に合っても、たとえ合わなくても、彼は帰ってくるし、明日もそのようにやって来るのだ。やって来て、去っていく。そのためだけに。



散文(批評随筆小説等) 準備のこと Copyright はるな 2011-04-20 18:40:15
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