ひなげし
はるな
ゆるやかな住宅地、カーブに沿って咲いているひなげしの頭をひとつずつ摘みながら目の前を通り過ぎる乳母車を押した女に俺は尋ねる「俺は誰だ」ひなげしまみれの女は重たいまぶたをぴくぴくさせながら言う「知らない」。乳母車には腐った林檎が四つ、呪文のように鎮座している俺はそのうちの右から二番めを地面に打ち付ける。女は行ってしまう。
駅前の雑踏、両肩に一つずつ、首から一つ、計三つのギターを提げた若い男に俺は尋ねる「俺は誰だ」男はシガレットケースから吸いかけの煙草を取り出して火をつける「じゃあ俺は誰だ」。俺はさっきの女の真似はしたくないと思って「お前は糞まみれの犬だ」と教えてやる、男は満足そうに煙草を親指の先で消してどこかへ行ってしまう。
午前二時四十五分の食堂、錆だらけの包丁を花瓶に生けている料理人に俺は尋ねる「俺は誰だ」まっさらな前掛けをした料理人は湿った言葉を吐く「今日は火曜日だからね、帰ったらセックスをする日だ。女房は排卵日だから快く迎えてくれるだろうし、水曜日は定休だからね、刃を研ぐ必要もない。何かを急いでする必要はどこにもないんだ。できれば暖簾を下ろすのを手伝ってくれるかい?」俺は気をよくして薄汚れた暖簾を焼き払ってやった、油の染みた薄い暖簾はよく燃えた、料理人はひどく喜んで鯖を一匹寄越してくれたがそれも腐っている、突き帰すと礼を言いながら料理人は行ってしまう。
ごみだらけの海岸、身に着けたものをひとつずつ取り去りながら海へ入っていく女を呼び止めて俺は尋ねる「俺は誰だ」膝から下を水につけたままで女は言う「知っているわ」「知っているわ」「知っているわ」俺はたまらず海に入り女の白い腕をつかむ「俺は誰だ」「知っているわ」「俺は誰だ」「知っているわ」「お前は誰だ」「知らないわ」女はだんだんと深いところへ入ってゆく、胸まで海に浸かっている、長い髪の毛が濡れて頬に張り付いている、気味の悪いほど黄色い顔だ、女の顔は暗くて見えない、しかしたぶん女は笑っている、俺は女の乳房に触れる、それは驚くほど冷たい、女はどんどん海へ入っていく、答えを持ったまま海へ入ってゆく、俺は女の腕をつかんだまま、海へ入っていく女を見ている、答えをもらえるまで待っているつもりだ。
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