菜の花のこと
はるな
口のなかの、右側の、親知らずを抜いたところが腫れている。そこはたびたびそのように腫れるのだけど、それは、「ばいきんが入った」せいだと、ずっと思っている。むかし長年歯列矯正をしていたころにも、そのようなことがたびたび起こった。歯科医師は、「ばいきんが入っちゃったね」と、(子どもだった)わたしに優しく呼びかけ、わたしはそのことを、自分がとんでもない過ちをしてしまったように感じていた。
なんとなく、場違いなかんじ。時折そんな心もちになる。たいていそういうとき、周囲(ひとだったり、景色だったり、音だったり)はやさしい。やさしさを享受するにはわたしには後ろめたいことが多すぎて、だからたぶん場違いなかんじになってしまうのだとおもう。
きょうは、運転免許の再交付へ行った。わたしのうちからその場所まではとても遠くて、電車とバスをのりついで一時間半かかる。バスに、一時間もゆられるのだ。行きも、帰りも、バスは程よく空いていた。
運転免許センターでは、物事のほとんどは滞りなく進められ、明るいライトを背にばしっというシャッター音でとられる写真、つねに怒った口調の女性の事務員、さまざまな世代の女性と男性、うすくらい食堂、べたべたした合皮のソファー、節電中のはり紙―そんなもののなかで、わたしの免許証も再交付されるに至った。
わたしはほとんど運転をしないが、学生でも社会人でもないので、運転免許証がないということは非常に不便なのだ。わたしの顔は幼くみえるので、コンビニエンスストアでたばこを買うこともできないこともある。(そのときは、たいてい一緒にいる成人にたのんで買ってもらうのだけど、なんだかすごく後ろめたい。)
免許証の再交付は、わりとあっけなく終わった。わたしは何かにつけお役所仕事(父親がよくこういう言い方をする)は時間がかかるものと決めて必ず読むものを持っていくのだけど、一章読み終わるか終らないかでできてしまったのだ。窓のそとに、桜が気持ちよさそうに咲いているのがよく見えたからかもしれない。とにかく天気のいい昼間だったのだ。
帰りのバスで眠った。乗り物に乗ると、わたしはたいてい眠ってしまう。なぜだかずっとそうだ。
目がさめると、バスはまだ道程の半分程度まで進んだところで、窓からは田んぼがたくさんみえた。菜の花も。菜の花はとても黄色くて、あかるかった。たくさん咲いていた。連なって、川べりをぐるりと囲うように、遠くには桜みたいな桃色もみえた。たてものがほとんどないので、遠くまでよく見えた。そんな風景がえんえんと続いているので、バスは走っていたけど、景色はとまっているみたいに見えた。なんというか、パノラマの紙芝居をみているような。よい景色だった。
たとえばそれを、誰と見たいと思えるのが適切なんだろう。
たとえば、おいしいものを食べたときに、気持ちのよい音楽を聞いたときに、物事を共有したいと思う時に、誰を思い浮かべることが適切なんだろう。
もちろん誰を思い浮かべたってそれは誰にも責められるべきことではないし、完全に自由なのだけど。でも。そういうときに、わたしは、適切だと思われるひとを思い浮かべて生きていたいなとおもう。そうしてそれが誰だかわかったためしはなく、だからやっぱりどこにいたって場違いな感じなのだ。そこが明るければあかるいほど、幸福に似ていれば似ているほど、わたしはなんとなく場違いなかんじになってしまう。
そんなことを考えていたら、しだいに街並みが近付いてきてほっとした。ごみごみした風景。わたしはそこでは、灰色をだれかと共有しなくてもいい。誰でもないわたしがそこにいたっていいと思うから。
日差しは暑いくらいで、きょうはじめて着たみじかいスカートが腿の内側でばさばさいった。女の子たちが、みな足をさらけだして歩いている。女子高校生が、風にめくれるスカートを必死におさえるさまは可愛らしい。いいぞいいぞ、と思う。わたしはスカートをおさえたりしない。下着をつけているし、風が吹いているのはわたしのせいではないし、スカートは短いほうが気持ちがいいから。
新しい服を買いたかったけれど、のどがかわいて仕方がなかったので、喫茶店に入る。
喫茶店ではサラリーマン、こんなに天気がよいのに喫煙席は室内の奥まったところにあってつまらない、氷はすぐに溶けてしまうし、口のなかは腫れている。なにか派手な色の洋服を買おうと思っている。ショッキングピンクとか、パンジーみたいな黄色とか、不自然なブルーとかの。ばかみたいにみじかいスカートや、無駄な装飾がいっぱいついたジャケットや、何も入らないくらい小さい鞄や。そういうものが買いたい。安くて、軽薄なかんじのする指輪やピアスも。
若い子が、自分を軽薄に見せようとするあの感じも、すきだ。馬鹿だな、とおもうし、もったいないな、ともおもうし、やめればいいのに、ともおもうけれど、すきだ。ただし、すこし離れてみるときに限って。
あの子たちも、居心地の悪さを感じているんだろうか。だから、自分を軽薄に仕立て上げて、場違いなのは当然だ、と、安心していたいのかしら。
つめたいコーヒーを飲んでいたら、火照りはおさまってしまって、洋服はいらなくなってしまった。かわりに髪を染めようと思った。
かたちを変えることでしか、入れ替わり立ち替わる周囲の馴染むことができない。顔や、かみの毛や、洋服なんかを変えることでしか。そういうふうに外側を安易に色付けして、自分じしんも移ろいでいますよ、停滞していませんよ、と宣言し、そういうふうにしか混ざれない。だから髪を染めようと思った。
で、電車に乗っていたら、頬がまだピンク色の男の子の学生たちがかたまっていて、みんな制服がばりばり堅そうで、少しずつ身体より大きい。私立の中学の一年生かしら。おそろいの制服、かばん、教科書、ネクタイの結び目のかたさまできっちり決められていそうで。かみの毛にみんなひとつずつ天使の輪を抱いて、まだやわらかそうな指をして。いつかは、きみたちも、女の子にぶんぶん振り回されるのだよ。と、考えるとすごく愉快だった。女の子たちも、きみたちに、うっとりしたり、がっかりするのだよ、と思うと、その柔かい皮膚はとても貴重なもののようで、泣きそうになった。やっぱり、髪を染めるのは今日はよしにして、そのぶん刺青をいれよう。しるしが欲しい、とおもう。決められた制服で、決められた髪型で、決められた教科書をそろって読んでいたあの頃も、でもこんなにはわからなくなかった。自分で自分のしるしがわからなくなかった。それは、見えないけれどだれの頬にも刻んであって、自分を他の誰かとは間違えたりしなかったのに。そんなこと、考えもしなかったのに。いまはとてもしるしが必要で、それを見たり触ったりしていないと、ここがどこで、自分がだれなのかわからなくなってしまう。わたしの耳には、もうこれ以上穴をあける場所がない。かみの毛も、もうそれ以上切れないくらいに短いし、ばらばらな色をしている。それでも、それなのに、わたしはやっぱりしるしが必要で、だから刺青をいれにいこう。
刺青といえば、足首にトライバルをいれている子がいた。背が高くて、頭がちいさくて、足の長い子だった。その模様はすこし褪せていて、皮膚にしっくりとなじんでいた。黒一色で、さわると、ほかのところよりすこし温度がひくかった。わたしは、その子のことをとても好きだったけど、そのトライバルはあまり好きではなかった。わたしの知らないものだったから。いくら裸で抱き合っていても、その模様をみると、わたしは置き去りになってしまった。好きだよと言ってくれるひとだったけれど、こころはしんとなった。わたしの知らないところで、わたしの知りようもない心もちでその模様を彫りこんだあの子。知らない、というのは恐怖で、でもそれを知ろうとするほど勇敢ではないから、あの模様と親しくなれる日が来ないことはわかっていた。そうしてその子とは会わなくなった。
どちらにせよ、でも、それはもう過去のことだ。わたしが刺青を入れたとして、そのことはその子の刺青とは関係がない。何物とも関係のないものとして、わたしはしるしを欲しているのだし。
駅について、再交付された免許証を財布から取り出して、もういちど、みた。
目のまわりを黒くして、髪のみじかい、頬の蒼いひとの免許証。これで心おきなく煙草が買えるね。
服も買わず、髪も染めず、模様も彫らず、コーヒーは半分以上残してきた。本は読み進められず、口のなかは依然として腫れている。
でもいちめんの菜の花をみた。それだけで今日はよかった。
あの、免許センターの、不機嫌そうな女性の事務員も、あれを見るだろうか。彼女にはぜんぜん似つかわしくない、屈託のない黄色。風がつよく吹いていて、コンビニエンスストアのまえを、空き缶がからから転がってゆく。学生が大勢バスから降りてきて、ロータリーを染める。ここには桜も菜の花もさいていない。名前のわからない細い気が、新芽をだしている。その緑いろがとてもやわらかで、我をうしないそうになる。
それがそこにあって、わたしはここにいる。いつも、これがそれかもしれない、と思うのだけど、たいてい、これはそれではない。人々は、それをすでに手にしているか、あるいは、それがなくても全然かまわないというふうに見える。わたしはでもそうではなくて、それを自分のものにしたいし、それがないということが不安でしょうがない。でも、それがどれなのか、まだわからないのだ。手に入れれば、それがこれだということはわかるはずなのだけど。たぶんなんでそういうことになるのかと言うと、わたしがまだわたしを知らないからで、わたしが、わたし自身をはっきりどういうものか理解することができるようになれば、それがどれだか、もう少し探しやすくなるんではないかと思う。
ほんとは、菜の花を、一緒にみたいと思った。
でも、終わったひとを思い浮かべるのはずるいから、蓋をしたのだ。
いつもそうして腐ってしまう。
誰かと幸福を分かち合うことを思い浮かべるのが、悲しいことだって、考えることこそが悲しいのに。後ろめたいこと捨てちゃって、分け合うことだけ考えられたらどんなにすがすがしいだろう。
天気予報では夜から雨が降ると言っていて、そうしたらこんなに仲間はずれな気持ちにはならないと思う。早く雨が降って、桜が散れば、おさまるのに。そういう身勝手な考えのままで、しばらく動けなかった。