今こそ、詩を書こう。
るるりら
きのう 被災地の蔵人さんの作ったお酒が とどいて 嬉しかった。タイミング 良すぎで届いたので、涙が ちょちょぎれたくらいに嬉しかった。ネット家計簿ソフトを開くと、被災地にできることが何か解らない、 お花見もしたほうがいいが、気がひけるというカキコミがあった。ぉおそうだそうだ。このお酒のことを教えて差し上げようと 思ったら、もう は完売になっていた。みずからの復興のきざしがあるところなら なおさら お金は 自立にとって 必要なことだと思う。
4/11に、選挙の結果が発表された。広島に 新しい市長が生まれた。それをうけて地元誌の中国新聞に 広島市で初めて公選市長になった 浜井信三という方の自伝「原爆市長」という本が紹介されていた。
「こうなったら全力をふりしぼってやらねばならぬ。」その一方で、「行く手に たちふさがる山を前に、途方にくれる 思いであった」と書かれているらしい。
今では、すべての瓦礫が整理され 以前にあった 多くの町の名前ごとなくなった地域もある。しかし、広島は復興した。当時 原爆市長が口にしていたことは、「お知恵を拝借したい。援けてほしい。広島市は復興したくても、金がなくて復興できないのだ。政府も思わしい補助をしてくれない。」ということも本に書かれているらしい。やっぱり、お金なんだと 思う。
わたしは、広島の被爆なんかより はるかに広陵な地帯が 日本において瓦礫の山になっているこの震災を どう見つめていけばいいのかも わからないまま いまもいるけれど、まだ 先は見えていないらしい。今必要なことは何か。それは お金なんだと思う。
原爆とこの災害の違いは あたりまえのことだけど戦争ではないということ。戦争ではないので みんな 言いたいことを言う自由がある。情報は 氾濫。誹謗中傷なんでもござれ。戦争だったら、憤りの矛先は情報が偏っていたせいで、差別にベクトルが集まるような悲しいこともあったらしい。でも いまの憤りの矛先は、いったい どっちにむいているのかも解かりもしない。一番 怖いのは、憤りの矛先を自分自身もっていってしまうケースが増えてはいないかなと思う。
被災地にいらっしゃる方のお気持ちを 汲むことを促すために多くの情報が流れている。行き場のない憤りが いろんなところに 表れている。
米テロ911のとき トップがくりかえし 訴えたことは「いつもと 同じ暮らしに とつめましよう」と繰り返したらしい。
しかし今回の災害でも 平常心であるべきだという人がいなかったわけではないと 思うけれど、実際には恐怖心から、不必要なものまで 買いだめをして 冷静でなかった自分に後になって後悔したりする人も多くいらしたらしい。
いつもと同じ暮らしをすることよりも 大切なことがある気がする。買いだめをした人は いつもの暮らしがしたかっただけだ。だけど、もっと大切なのは、情報に勝つことのような気がする。情報を自分の中にとりこんで、なおかつ自分を壊さずに 行動できる自分になることだと思う。それには、どうあるべきか。
みんな すべての人が いまこそ。詩を書けばいいと思う。
自分の言いたいことを できるだけ本心からのコトバを まずは出すことだと思う。ただ出すだけでは 終わらず、題をつけ。ひとつの思いとして 形にし、自分がその詩の良き読者になることじゃあなかいなあ。
ヨガの教室で ダイビングの経験もある先生が言っておられたことなのだど、人間は ほっておいたら なんでも心や体に貯めようとするそうだ。溺れる人は、空気を吐くことを忘れるそうだ。自分の中にあるものを 正しく吐こうとするなら、正しく情報も きっと入ってくる。心に泥が詰まっていたら、入ってくるものも 入ってこようにも 入る場所はない。
だから 詩を 書こう。いまこそ、詩を書こう。詩を楽しむ心をもって 生きることを尊び、お酒の飲める人は飲もう。コトバでないほうが自分が出せる人は メロディを奏でよう。絵のほうが 表現になる人は、絵を書こう。
でも、やっぱり詩は 道具がすくなくてもできる。だから 詩は 良いと思う。