青い預言者(マリーノ超特急)
角田寿星
陸沿いに敷かれた海上の線路をはしる列車はやがて大きく迂回して切り立った崖に囲まれた入江の駅に到着する。この駅の正式名称は「切り立った崖に囲まれた入江の駅」であるがわたしたちは秘かに青い預言者の駅と呼んでいる。峻険な崖を縫うように不揃いの階段を昇っていくと崖の上には十数軒のささやかな家々が枯草色の壁を吹き上げる潮風に晒している。村はずれのふかい森に接するように青い預言者アスルのかつての住処があった。
アスルがどのようにこの村にやって来たのか知る者はいない。或る者は南から来たのだと言うが南回りの列車しか存在しないこの区域では線路を徒歩で渡るか陸沿いに点々と海を渡る以外の手立てはない。或る者は村のさらに奥ふかく横たわる森を突っ切って来たのだと言うが今や人を喰らい拒絶する緑の地獄をどのように抜けてきたのか説明できる者は誰ひとりいない。また或る者は南回りの海洋特急に乗って多くの者がそうするようにこの駅に降りたったのだと言うが彼がはじめてここの扉を叩いた日は嵐の晩で崖下に列車の姿は影もかたちも視えなかった。或る者は言う。嵐の晩には海洋特急は装甲をみずから被りひとときの眠りに就くのだ と。
あの日アスルは濡れそぼったまま黙って右前腕を差し出した。わたしたちの右腕には身分証明を明かすコードが組み込まれており見ず知らずの旅人が行き交う海沿いの村々ではじめて扉を叩く時のそれが正しいマナーだった。横なぐりの雨に濡れてアスルは暗がりに白い歯をみせた。ここに住みたいのだ と。村人はアスルの右腕に簡易身分照会キットをあてる。出身地は南に点在する島々のひとつ。犯罪歴なし。追放歴なし。そうしてはじめて村人はアスルを屋内に招き入れかたい握手を交わした。アスルと村人は村はずれにちいさな小屋をつくりそこがアスルの住処となった。
来る日も岩だらけの痩せた土地を耕しつづけるアスルの褐色の肌は村を吹き渡る潮風の色によく馴染んだ。家々の枯草色の壁や貧弱な実りをもたらす穀物や果実の色に調和した。彼はちいさなハーモニカをひとつ持っていた。ときおりアスルは切り立った崖に囲まれた入江で誰にも解らない記号のような計算式を書いた。入江に立った彼の姿は砂浜の白さと海の青さのなかで際立ってみえた。日没直後の群青色の空に細長い雲が白い陰影をつけて流れていく。そんな時アスルは薄暮の闇にまぎれて判別がつかなくなった。
その間にも村の奥ふかく横たわる森は生長をつづける。森の侵略になす術もなく村の生息域は縮小の一途を辿っていた。ひと月前までの灌木の平地が鬱蒼とした森に変ることも一度や二度ではなかった。森の奥ふかくで人は生きられない。或る者は言う。黴か胞子か定かではないが―それはヒトの運動神経領域を有意に侵す。森のなかで動けなくなったヒトにやがて緑の苔のようなものが皮膚から内臓にいたるまでびっしりと襲いかかる。それはヒトを養分にして徐々に溶けながら生長し土に還っていく。森に喰われるとはそういうことなのだ と。
嵐の晩。空を貫く電光が駆け巡った明くる朝にアスルは忽然と姿を消した。村人はアスルのかつての住処を突き破って一本の大木が生い繁っているのをみて息を呑んだ。一本と言っては語弊があるだろう。杉とも樫とも羊歯ともつかない植物が集合したような老木の風格をもつ生命体が一夜にして出現した。村を渡るつよい風を受けてそれは身を震わせ葉擦れの音にハーモニカの音色が聴こえたような気がして村人はその大木がアスルの失踪に関連づくものであろうと口々に噂した。
やがて一年も経たないうちに村人は知ることになる。その日を境に森の侵略が鳴りを潜めていることを。アスルの木を遠巻きにして森は生長をやめている。時に森はアスルの木に長い蔓草を伸ばして語り合うことがあるもののそれ以上の接触は試みようとしない。
或る者は言う。アスルはこの地で森に抗う秘法を完成させたのだと。そしてアスルは預言した。わたしは木になり森から村を護るものになろう。やがてわたしの意志を引き継ぐものが現れ人々を苦難の道から救うであろうと。或る者は言う。電光が空を貫いたあの日に秘法の完成を知られたアスルは人知れず管理局に抹殺されたのだと。或る者は言う。彼は南回りの海洋特急に乗って生れ故郷に帰っていったのだと。或る者は言う。青い預言者アスルは秘法を伝道するべく北への旅をふたたび始めたのだと。また或る者は言う。アスルはそもそも人ではなく空から降り立った預言者であり救世主であり大木よりこぼれる果実は預言者アスルのみことばにほかならない 信じよ!と。また或る者は言う。彼は管理局の非合法な使者であり人類に同情的な存在により秘密裏のうちに地上に派遣された下級職員であると。何者かがつぶやいた。信ずるものを奪われた人々が編み出した新たな偶像。寄る辺なき者どもが必死にすがろうとする哀しき玩具。
アスルは何も語ることなく去っていった。
入江を囲む切り立った崖上の村はずれになかば大木と同化したようにアスルのかつての住処がある。わたしたちはそれを青い預言者の家と呼び ここを青い預言者の村と秘かに呼んでいる。崖を吹き上げるつよい潮風にアスルの木は今日もざわめいてそれはハーモニカの音色なのかアスルの預言なのか或いは自分の耳を持った者ならばきっと聴き取ることができるのだろう と。
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