「名」馬列伝(16) サイコーキララ
角田寿星

人間は過ちを犯す動物である、と以前、職場の先輩から教わったことがある。
人間が人間である以上、それはかなしいことに避けられないのだ、と。
過ちを可能な限り取り戻す努力をすること、同じ過ちを繰り返さないこと、それが本当に大切なことである、とも教わった。


2000年の桜花賞、阪神芝1600m。
二十世紀最後の3歳牝馬クラシック第一弾は、間違いなく彼女が主役であった。
これまで4連勝。先行して直線入口から力強く突き抜ける、爆発力のある末脚。
ライバルと目される他馬を次々となぎ倒してのものだけに、価値も高かった。
鞍上は石山繁騎手。彼女の厩舎の所属騎手であり、デビュー6年目の若手である。
彼女に会うまでは、重賞で3着になったことがあるくらいで、大した実績を挙げていなかった。

2年前。石山騎手はかつて、素質ある牝馬の主戦だった。
ファレノプシスである。
デビューから3連勝でクラシックの有力馬として躍り出た。
が、初めての重賞挑戦となる桜花賞ステップレースのチューリップ賞で、痛恨の出遅れを喫してしまう。4着、敗戦。
本番の桜花賞では、当時のリーディング騎手だった武豊に乗り替わり、見事勝利。
そして石山騎手がファレノプシスに乗せてもらうことは、二度となかった。

彼女の4戦めは、初めての重賞挑戦だった。
桜花賞トライアル、報知4歳牝馬特別(当時)。2年前のファレノプシスと状況が被る。
負ければ石山騎手には後がないだろう、それが当時の競馬ファンの、率直な見解だった。
が。彼女はモノが違った。
いつもの先行策から早めに抜け出し、普通に1周回ったら勝ったという、楽勝劇。
シルクプリマドンナ、エアトゥーレらの追撃を振り切ってのものだった。2年前と同じ過ちは、とりあえず繰り返さなかった。
そして彼女と石山騎手は、本番の桜花賞に臨むことになる。


例年、桜花賞は4月上旬に阪神競馬場で行われ、その頃は競馬場内の桜が満開になる。
満開の桜の下で行われるレース。「桜花賞」と名付けられた所以だと仄聞している。
桜の木の下で、大柄な彼女の黒鹿毛の馬体は、輝いていた…
いや、輝いていてほしかった。
元来カリカリしやすい性質の彼女は、パドックでややイレ込んでいるようだった。
さらに鞍上の不安。そう、一流といえない成績の石山騎手は、G1レースの騎乗自体、初めてである。しかも阪神芝1600mは6年目にして未勝利で、2着に来たことさえなかった。
それでも単勝1.8倍の、圧倒的な1番人気。2番人気のレディミューズが6.7倍である。彼女への、そして石山騎手への期待は大きかった。
期待というより、あるいは願望のようなものか。
いったん苦汁をなめた騎手と、一流血統ではない素質ある牝馬。ひとつのサクセスストーリーが現実となってほしい、そんな願いを込めて。

レースは忙しく過ぎていった。
スタート直後、中段よりやや後ろめに位置する。いつもの先行策ではない。
第2、第3コーナーと、いちばん外を大回りして上がっていく。前を塞がれる不利を避ける利点はあるが、余分な距離を走るぶん、脚を使ってしまう。
直線入口では4、5番手。
そこから彼女は伸びなかった。いつもの爆発的な末脚は影を潜めてしまった。
右回りのコースで右ムチを連打する騎手。馬上でステッキの持ち替えができなかったのだろうか、おおきく外にヨレながら、もがくように走る彼女。
4着。敗戦。彼女の前には、それまで彼女の後塵を拝しつづけてきた馬たちが、ゴールを駆け抜けていった。

続くクラシックレース、オークス。
血統的に2400mは長いと判断された彼女は4番人気。
スタート直後、抑える競馬をした彼女は、大きく口を割って抵抗する。明らかに折り合いを欠いていた。
最後の直線、一瞬前があくが、その時にスパートをかける脚は残っていなかった。
逃げた馬さえもかわすことができず、6着。
レース後、彼女は屈腱炎を発症し、長い長い休養にはいる。

1年以上の月日が経ち、彼女は夏の札幌競馬場で復帰したが、あの頃の強さは戻らなかった。
第3コーナー途中で早くもタレはじめ、ブービーから6馬身も離されたシンガリ負け。これが、彼女の現役最後のレースとなった。
桜花賞までの彼女を知る者にとっては、寂しすぎる引退であった。競馬では毎年のようによくあること、ではあるのだが。


その後の石山騎手であるが、結局彼女の4歳牝特が、最初で最後の平地重賞勝ちとなった。
彼が主戦騎手になってから、師匠の濱田厩舎が深刻なスランプに陥る。G1レースをいくつも勝った厩舎が、2004年には、ついに0勝。
しかも石山が主戦を降りてから調子が再び上向きはじめるという、皮肉な結果。
乗り鞍もどんどん減っていき、石山は次第に障害レースに活躍の場を見出すようになる。
2005年、フミノトキメキで小倉SJを制覇。二つめの重賞勝ち。障害ジョッキーとしての活路を、自ら切り開きはじめた頃のことだった。

2007年2月。障害オープンで落馬負傷。脳挫傷で意識不明の重体となる。
意識を取り戻すのに1カ月。取り戻した後も、高次脳機能障害に悩まされる。
人とのコミュニケーションがとれない。会話が成り立たない。少し前にやったことの記憶が、その直後には消えてしまう。負傷レース前の2年間の記憶はとうとう欠落してしまった。
覚えていたのは、騎手時代に体に染みついたステッキ捌き。
そして、フミノトキメキ。騎手時代の数少ない栄光。
石山は彼のことも、ほぼ唯一、覚えていたという。

リハビリや家族の支えの甲斐あって、石山の脳障害は、少しづつ改善をみせた。が、騎手復帰はかなわなかった。
脳挫傷の後遺症である視力低下が致命的だった、という。2009年、引退。
奇しくも、師匠である濱田調教師の定年引退と同年であり、師匠の引退式に石山も出席した。
騎手会の提案で急遽、予定になかった石山元騎手のプチ引退式も行われ、花束が贈られる。
顔をくしゃくしゃにして花束を受け取る石山。病に倒れ闘病生活を送る濱田師と、かたく抱き合う。
ほんとうにいろいろなことがあったのだ、と思う。
ほんとうにいろいろな、彼らにしか分らない、いろいろなことが。


サイコーキララ   1997.5.1生
          7戦4勝
          主な勝ち鞍:報知4歳牝馬特別(G2)


石山 繁      1995年デビュー 2009年引退
          2015戦92勝
          (平地1870戦79勝、障害145戦13勝)
          重賞2勝(報知4歳牝馬特別、小倉サマージャンプ)


散文(批評随筆小説等) 「名」馬列伝(16) サイコーキララ Copyright 角田寿星 2011-04-09 23:44:52
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