我々は日にちを表す言葉を長きに渡り使用してきた訳であるが、本日2011年4月1日を以
って「日日」の言葉の意味するところが従来の昨日になり、「日」の言葉の意味するとこ
ろは従来の今日に改正される。同様に「日日日」の言葉を意味するところは一昨日という
ことになる。
だが留意していただきたいのは、この改正において何らかの言葉が明日という意味にな
ることはないことである。この改正の勘所はそこにあるのだが、従来の「明日」という言
葉が意味している領域は、この名称の使用を停止することと並行して消滅する。
もはや我々に明日はない。明日について語ることはこれからのこの国の言語活動において
非生産的なことである。「明るい日」と書いて一日後の未来を意味するというのは、他の
日にちを表す言葉(今過ごしている日 = 今日、過ぎ去った日 = 昨日)に比べて客観性が
喪失を招きかねない。「明日」は本来「朝」をあしたと読み今日の次の日を意味していた
ものが転じたものであり、「朝」には夜が明けた次の日の朝という意味が込められてい
た。そこから「明くる日」という表現が生じてきたわけであるが、一日先の未来が「明る
い」ものや「明らか」なものであるとの誤解を生じかねない表記である。
この改正は、我々「日日に関する言語表記調査委員会(以後、日言会)」が政府から昨年
の10月頃に検討を依頼されたものである。しかるべき機関と連携をとった結果「時系列空
間概念学会(以後、時空学会)」をその軸に置いた意味的日にち論争と、我々「日言会」を
軸とする表記的日にち論争が繰り広げられる結果となった。我々「日言会」の議論は先に
見たような誤謬を正すために、「明日」という名称の使用を停止させる方向でまとまっ
た。
一方、時空学会での議論は、時系列観測の専門である亞万大(亜細亜万華大学)の木屋教
授の数十年に渡る調査でも、明日というもの存在をこれまで一度も確認できず、また今後
数百年の間は不確定要素を伴う「明日」を捕捉・観測できないだろうという結論を発表
し、他にも科学的また哲学的見地から議論が錯綜したが、追えば逃げる明日という概念の
存在を証明しうる論は現れなかった。そして同時に「今」と「過去」の概念に関してもか
ろうじて捕捉・観測はできているものの、不確定な部分を多く含んでおり今後深く検証し
ていく必要があるということが明らかになり、それを結論として議論は一つの終焉を見
た。
よって、我々は以後、明日という概念及び表記の一切を放棄し、今日という今このとき
を懸命に生きていくことに、国民生活の関心の一切を払うように、言語の改正を通じて促
していくこととする。また昨日を始めとする過去の例を鑑み、今日の活動へ生かしていく
ために従来の昨日を「日日」と「日」を重ねることで表現し、今日を意味する「日」がそ
の積み重ねによって得られたものであることを表現することとした。
日日に関する言語表記調査委員会
2011年4月1日
なお現在、当委員会は現代という言葉のリアルタイム性の欠落と、「現代」に変わる「新
代」「未代」の必要性について見当を行っている。5月中にはその報告をまとめる予定で
ある。