愛に関する覚書と考察
はるな


愛というのは、感情ではなくて状態ではないかと思う。持続するある関係性の状態を指すのではないか。あるいはその関係性のなかにいる自分自身の状態。
これは愛に限ったことではないけれど、感情があまりに一方的になるのは悲惨だ。(悲惨な状態へ向かう可能性を多分に孕んでいる)。そしてそういう場合、ある一方はその状態に気づいていないことが多い(だからこそ一方通行になる)。

人々はいつでも相互に関係しあっていると私は考えているが、その関係はつねに齟齬を含んでいる。でもそれは仕方のないことなのだ。何ものも完璧にわかりあうことはできない。自分自身とわかりあうことさえ難しい。それは悲しいことであり、ある場合にはそれが良い結果をもたらすかもしれないけれど、大事なのはとにかくそのことを承知していることだ。

危険なのは、同じ気持ちだ、と、感じることだ。それはたいてい恋愛においてのことなのだけれど、ふしぎなことにそう感じたあとには同じくらいかなしい心もちになるのだ。「同じ」ではなかったことを知るからかもしれない。気付いてみれば、同じ場所に誰かと一緒にいられたことなんてなかった。
そういうのはたぶん、あとになって初めて気づくのだ。(ああ、あのときわたしたちは同じ場所にいられたなあと)。同じ場所にいるってことは、見つめあうことではない。見つめあっているだけじゃご飯は食べられない。ご飯がいらない愛なんて、小説や映画に任せておいた方がいい。私たちは生活をしなくてはいけないのだ。健やかな生活を送らなくてはならない。同じ場所に立って、しっかり前を向いて、お互いの足で進むべきだ。誰かの体を道具みたいに使うのではなくて。自分の持っている術で進みながら、認めることだ。相手が自分ではないということを認めること。

認めることは、許すこととも似ていると思う。認めることは愛ともすこし似ている。そして私は多分許されたいのだ。あらゆるものに、あらゆる人に、許してもらいたいのだ。でも、似ているだけで、許されたからといって愛してもらえるわけじゃない。
私は、私以外のものが、私ではないということを知らなければならない。その先に認めることや、許しがある。そのために、私はどこまでが私なのかを知っておかなければならない。それはあるときにはすごく容易なことだけど、べつのあるときには困難なことだ。うまく述べることができないが、でもたぶん、簡単にできるときが正しいのだと思う。
そういうとき、心はとても気持ちがいい。自分のサイズを知っているとき、私はすごく自由だ。そこにあらゆる可能性があり、あらゆる不可能性があることを、なんのためらいもなく受け入れることができる。物事がすべてが、それそのものだということが分かる。わたしがわたしそのものであるからだ。そこに疑いはない。矛盾さえ、矛盾のままにそこにある。あるものすべてがあるがままにそこにあるということ。それは尊くて、残酷なことだ。
けれどそういう気分はなかなかやってこないし、いつも長くは続かない。

誰かを(何かを)愛するとき、それが他の誰かを愛さない、ということになってはいけない。そういう愛はかなしい。たぶんそれは愛でさえない。では誰かを愛するということは、ほかの誰も彼もを愛することか、と言えばそれはちょっと違う。愛はそういうものではない。愛はあるときの一点の感情ではないと思うのはだからだ。愛と言うからにはそれは持続するものであるべきだ。もちろんそれはごく短い期間かもしれないし、終わることもある。でも、あとになってからあれは愛じゃなかった、と言うんなら、それはそもそものはじめから愛ではなかったのだ。それは疑うべきものじゃない。それはいつもただそこにあって、何かの拍子にそこにあることを知って、ほほ笑むようなものなのだ。たぶん愛は最初からそこにあるのだ。いつからとか、いつまでとか、そういうことじゃなく。ただそこにあって、私たちが気付かないでいるだけなのだ。
愛はそういうものであってほしい。

ただあるべきものとしてここにありたいし、ただあるべきものとしてそのものを認められたらどんなにいいだろう。疑いや、意味や、理由や、いつだってそういうものを見つけてしまうのは、たぶん不安だからだ。そこにあるものを認めたり、許したり、愛したりしてしまうのが不安だからだ。あるいは自分自身がなかなかそういう風に受け入れてもらうことがないから。いつだって自信がない。
たとえば裏切るという言葉があるけれど、いちど何かを信じたなら、それに裏切られることなんてないはずなのだ。信じるっていうのはそういうことだ。物事が自分の考えているのと180度くらい違う展開になるだけだ。妄信しろ、ということではない。自分以外を、自分ではないということを知っていればいいだけだ。いいだけなのに。それが難しいことのようになってしまった。歳をとるにつれて、それは難しいことになってしまった。

ただそこにあるもの同士で出会って、ただそこにいるもの同士として一緒にいられれば、それが一番だ。理由や意味や成果を求めることなく。
でもやっぱりそれも映画や小説に任せるべきことなのかもしれない。



散文(批評随筆小説等) 愛に関する覚書と考察 Copyright はるな 2011-03-28 02:33:33
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