線路を歩く
構造

単純な足し算もできないのか、と言われることは多い。まぁすくなくとも
小学生のころからずっと算数は苦手だったし、ある程度克服したなと思える
現在であれ十数たす十数の計算を即決で間違えない人間に比較すればそれは愚鈍と
いうことになる。くわえて地震。正直これは堪えた。苦手であるけれども
それは仕事であるから脳を五倍回転させて他人より五秒遅いくらいで答えを
だすことはできる、三十幾つだと。二十にまず数をあわせ、自信がないぶん、
余計な再計算で間違いないことを確認もするから、総合で大体8秒遅れる
だろう。それが玉がすべて弾けた算盤のようになった。"たくさん"とも"少し"
とも考えられん。幾つが幾つになるとそもそも三十幾つになるのか、ほとんど
数字が記号というより番号としてしか考えられなくなった。

震災から一週間、つまり七日たったというのもテレビで知った。被災者なら本来
覚えておくことなんだろうが、サポセンという仕事柄曜日の感覚はない。つまり
11日が何曜日か覚えていないのだ。何曜日にあの地震があって今日は何曜日だ、
つまり一週間がたったのだと感慨を抱くのだろうが何曜日か覚えていなかったし
そもそもなぜか地震が起きたのが12日と勘違いしていた、それに七をたそうにも
頭が働かずまあ三月十何日くらいだろとかしか思っていない。それに体感としては
三日くらいしかたっていないように感じた。スーパーに並んだり空いている個人商店
を回ったりの買い物であわただしく動いてはいたが


市街地は幸い被害は"ましだった"。海岸部の惨状をテレビで見る限り非常にましと
いうことしか言えない。すでに電気と水が通ったので、風呂に入れない以外はいま
のところそれほど目立った被害はない。だが何時電気が通ったのか正確な記憶はない
水が先だったか電気が先だったかもよくおぼえていない。

派遣会社からメールが来たのは15日午後のことだ。これはメールの履歴が残っている
ぶんはっきりしている。18日の出勤者を募集して
いたので、家族も無事だった俺は請けることにした。貼り付けられたURLの緊急
掲示板に無事である旨を伝え、18日午後に会社へ向かった。東照宮駅からすこし
進んだところで仙山線の仙台行き列車がそのまま停止していた。踏み切りの遮断機は
無残に壊されている。当日に電車も通らないのにカンカン鳴りながら下がりっぱなし
だった遮断機は自動車の通行の邪魔になっていた。自宅へ家族の無事を確認しようと
急いでいた連中は遮断機のポールを引っこ抜き、あるいは壊して自宅へ向かった。
幸町踏み切りを通過して会社へとたどり着くと、会社は休みだった。普通に考えて
仕事になるはずはないと思っていたが予想通りだった。無事を確認するだけのメール
だったらしいが、派遣会社のほうで先走って勤務可否を問い合わせるメールを出して
しまったらしい。

今日の用がなくなった俺はすこし海岸部に行ってみようかと思った。
自転車で20分も走れば仙台港近辺まで着くだろう。
何かの覚悟を決めるにはちょうどいいかもしれない、しかしやめた。
実際に行った友人から惨状を聞いてる以上、わざわざ車の中を覗き込んで
誰のものともわからない死体を確かめる必要もないと思った。
現実を受け入れるもなにも、何を覚悟しろというのか、すこし混乱した。

散々原発のニュースを聞いてノイローゼになった姉は、旦那の実家がある
北海道へ避難した。延々と避難を勧めるメールが届き続け、それを無視し
つづけている。仙台のほとんどの人間は東電の発表を信用していないが
同時に、東京のパニック状態を軽蔑してもいる。死ぬなら仙台でと思って
いる人間、どうせ奇形児が生まれる程度だと思っている人間、さまざまだ

おれも死を思った。職場では実家が流された、家が半倒壊でべったりと危険
という赤シールを貼られたなどと冗談交じりに話している。復興への期待
というよりは命があるだけまぁマシだという諦念が漂っているのだ。

帰り際、開いてる商店を探しいくつか寄り道をしたあと、幸町の踏み切りに
たどり着いたところで俺は思った。この状況なら鉄道線路の上を歩いていった
ほうが東照宮に抜けるには近道じゃないだろうかと。実際は自転車にのって
いるので線路の上を走るメリットなど欠片もない。オフロードタイプでもない
普通の通勤自転車だからだ。
しかしおれはなんとなくやってみようと思った。、幸町の踏み切りから横に
入っていった、だが結論からして自転車で線路の上を走るのはまず無理だった。
それならと自転車から降りとがった砂利の上を自転車を引っ張り歩きはじめた。
砂利のうえは存外に歩きにくく、すぐに後悔した。自転車のタイヤを線路の上に
乗せると動きやすいと気付き、十メートルほど歩いたところですこし楽になった

東照宮の停止している電車がようやく正面に見えはじめ、俺はぼんやりした頭で
思った。おれの時間感覚のなさから考えて、今の状況は地震でもなんでもなく、
ただなんとなく11日から時間が停止しているだけかもしれない。あの電車が
いま動き出したらどうなるのだろうかと。まちがいなく俺はあの電車に轢かれ、
自転車ごと体はめちゃくちゃにつぶされるだろう
その代わり沿岸部の惨状もなく、あのくそ原発におびえることもなくなるとしたら
俺ひとりの体がめちゃくちゃになるほうがいいはずだ。
電車よ動けと思いつつ、同時に動いてくれるなと思った。巨大な停止した電車が
目の前に近づくにつれ、動いてくれるなという感情のほうが強くなった。
動くなと念じつつ歩ききり、東照宮の踏み切りに合流して一般道に戻った。
こうして俺は寝てたら元の仙台に戻れればいいなという、ありえないが、どこかに
ぬぐいされず残っていた幻想をありえない想像であきらめたことになった。

通過儀礼にしては、われながらしょっぱいバンジージャンプだなと思いながら
タバコをふかした。横の空き地にゴミとともにタヌキとキジ、それにイタチの
剥製が捨てられていた。おれはすこしの娯楽として、この三体で三すくみを
どう実現するかというくだらない計算をおもい浮かべはじめた。



散文(批評随筆小説等) 線路を歩く Copyright 構造 2011-03-27 00:01:52
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