エッセイ・月と火星が出会う夜
岡村明子

「月と火星が何万年かぶりにデートしてる夜に
そんな話するの、やめようや」

都心から一時間半
駅前にコンビニは一軒
周りは畑というこの駅にも
タクシー乗り場があるのだが
終電まではほとんど乗る人もいない
運転手たちは車を降りて
煙草をふかしながらたわいもない話を
日がな一日しているのだ
そんなとき
聞こえたこの言葉

何の会話の脈絡だったのか知る由もないが
おそらく夫婦の話ではないか
昨日ちょっとしたことでいさかいになって
離婚だ、裁判だ、と物騒な話を同僚に
少々大げさな自己弁護もまじえてしていたのではないか

聞いていた同僚はなだめるつもりで
しゃれたことを言ったものだ
月と火星の接近がデートだなんて
陳腐な見立てかもしれない
だが
実際には光の単位を使わねばならぬほど
遠く離れた二つの星が
地球からは寄りそうように見える
案外男女の心なんてそんなものかもしれないじゃないか

そういえば今日は空を見上げて歩く人が多い
想像もつかないほど遠く離れたところにある現象でも
見えるということほど確かなことはない
人間があちこちで同じ空を眺めて
いろんなことを考えて
離婚さえやめてしまうかもしれない
そう思ったら
何万年か昔の人が
同じ月と火星を見てかわした言葉が
無性に知りたくなった

駅からの帰り道
さっきの言葉を反芻するうちに
くるりと踵をかえしてコンビニへ向かった
ワインを買うために

何万年ぶりかの邂逅を祝して
ささやかながら
乾杯するために


散文(批評随筆小説等) エッセイ・月と火星が出会う夜 Copyright 岡村明子 2003-10-15 00:55:55
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