大満月
salco

まあ綺麗。
月はどうなつてゐるのでせう。

あゝ、飴利禍軍人の湯たんぽみたよな足跡がべたべた残つてゐるさ。
乗捨てて行つたゴオカアトとか旗竿とか、そんな金属玩具や芥も其儘だ。

まあ、あの哀しい白塗りのお月さんに。

(ふむ、捨てて顧みられぬ年増の妾と云ふところさ)
一体に、飴利禍なる新興国の知性はどんな莫迦気た夢でも実現して了ふ。
一番乗りとかパイオニヤとか、強迫的に好きなのだらう。
せずには居られない。愛蘭の百姓をメデヰチ家呼ばはりするほど歴史が
無いから揺曳すべき古典世界が無い。
拠つて憧憬の行先は総て軍事力であり、文化の様相と云へば紙幣の乱舞
でしかない。

まあ、何て野蛮なんでせう。

パクス羅馬以来の征服と栄華を百年の内にやつつけて了へと云ふ気概も
有らうさ。
併し己れの国土が最後の処女地だつたのだから、侵略の矛先は天に求め
ざるを得ぬのだ。

可哀さうに。
痩せたり肥つたり、今夜だつてあんなに透きとほつて輝いてゐるのに。
(何だか、先刻よりか小さく見へるやう)

まう散々走り廻つて踏査したのだし、採るものは採つたのだから仕様が
ない。
国旗は立てたし、イリヂウム鉱も無いのにあたら金をつぎ込むものかい。

だつて未だ幻想は残つてゐるし、其れにあんなに近いぢやありませんか。
まつと繁く往き来して、いづれ別荘でも建てたら好からうと思ふわ。

莫迦云へ。
其れ以上の狼藉に及ばず済んだのは結局、女と酸素が無かつたからさ。
何しろ銃を打つ放せば反動で自分が宇宙を漂ふ羽目になつちまふ。
地球人は万有引力と大気無しでは生きて行けぬ、まるで無力だ。

まあ、あなた。女は月に行つた例が無いのでせうか。

女と云ふものは便所で血を垂らしてゐるだけさ、事の進捗に関はらず。
或は頭がいかれて夜ごと茫漠の砂浜を彷徨ひ歩いてゐるやうなものだ。

失礼な。
男なんぞ外で無駄な血を流して打つ斃れてばかりのくせに。
其れに文明だつて女が人類を産むからこそぢやありませんか。

ふむ、人智は頭脳が産むので女の股ぐらから出るのではないよ。
其れに男の血反吐は詩となり男達の流血沙汰は王国を造つて来た。
文明は権勢欲に駆られた人間の頭のひつぱたき合ひから生ずるのだぜ?

其れぢや戦争と一緒ぢやありませんか。

さうとも、文明とは利得と荒廃の繰り広げる円舞の謂ひだ。
上品ぶつてはゐるが、黒い魂胆と惨憺たる結末の紅楼夢と云ふところ
だよ。

あゝ、そんな云ひ方つて厭だわ。
何んだか地球までもが茫漠に思へて来る。

仕方あるまい。人類は此の性に依つて今迄生き延びて来られたのだ。
火も然り、闇を遠ざけ肉食に安らふ牧歌的の歴史を運ばれて来たわけで
はない。
傘一本だつて利便の為の案ではない、気取りと優越に酔ふ為の具足が発
祥だ。
亦どんな遺跡の柱も血を吸つた過去を持たぬものは無く、殺戮に斃れた
屍をば載せた覚へを持たぬ地面は無い。
造つては壊し造つては壊し、殺しては産み殺しては産み、さうして世界
は刷新されるのだ。さもなくば芥で溢れて了ふ。
戦争だつて剰余を取捨選択する機会なのだぜ? 自然災害なんぞの生ぬ
るい手ぢや、とても人間を淘汰するには追ひつかぬからな。

よして頂戴。
そんな事を聞くと眼を開けているのさへ厭になる。
いつそ月へでも行つてしまひたくなる。

行けやしないのだよ、何処へも行けやしないのだ。
アポロの妹だがね、あれの裳裾は月光の見せたあやかしだつた。
月光とは無論、アポロの反射だが。アツハツハ! 
ダヰアナなぞ居らぬのさ。近づいて見ればおまへ、それは一面痘痕でセ
メント色の陰鬱な屍だつたのだ。
水の痕跡の無い海底の漆黒と、有機物の痕跡が無い静寂の堆積でしかな
い。
かうして踵の先は墓場なのが知れたもので、爾来は碧青の砦を離れずに、
その周回軌道上にマルスのチヤリオツトを配備する事にしたわけさ。

仰らないで、そんな未来を塞ぐやうな事。
息が詰まりさう。
夢ぐらゐ見たつて好いぢやありませんか。せめて頭の中だけでも何処か
…。

(ふむ、女は此れだからな。帰ると云つたら愁嘆場か知らん。俺は疾う
に、此奴の柔過ぎる丘陵なぞ食傷だよ)


自由詩 大満月 Copyright salco 2011-03-24 23:09:48
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