イメージできるかい?
はるな

さて、何から語ろうか。
イメージできるかい?
愛を感じるかい?

どこからはじめようか。
君はイメージすることができるかい?

イメージ、それはたぶんある種の才能だ。それがぜんぜんできない人だっている。
イメージ、それはまたある種の鍛錬だ。きみはきみが生きていくのに必要なだけそれを練り上げることができるだろう。

あらゆる言葉によって愛が語られるだろう。夢や、希望や、可能性が語られるだろう。
そういうものをイメージするときに、出てこないだろうか?それらと正反対のもののイメージが。そうでなければ嘘だ。愛や、夢や、希望や、可能性を語ろうとするときに、憎しみや、闇や、絶望や、不可能性を孕まないイメージしか出てこないのならば、それは嘘だ。
物事は常に両極と矛盾を孕んでいる。そのことこそが矛盾していると思うだろうか?正解。メビウスの輪を歩き続けよう。いつまでたっても裏側にたどり着けないと思うだろうか?ねえ。今立っている側が、裏か表かわかっていて言うのかい。
みうしなってはいけない。物事はたしかに、両極と矛盾を孕んでいて、客観視することは重要だ。でも客観に立ちすぎると自分をみうしなう。迷うことはもちろん誤ったことではないけれど、死ぬまで迷っていていいことなんてひとつもないと思うよ。
イメージできるかい?
きみは導かれる。善悪のもとに?信仰のもとに?強弱のもとに?
なんだっていい。それはさして重要じゃない。重要なのは、選択するということだ。きみ自身の決定によって。選択にはいつだって責任が伴う。そのことを理解していさえすれば、きみが何のもとにその選択をしようと自由だ。
きみはイメージできるだろうか?
きみは産まれ落ちた。愛のもとにか、そうでないか、きみにはもう知る術がない。きみは不安だ。知らないということは、不安だ。そういえばきみはいつも不安だった。愛から一番とおく離れた場所に忘れ去られた一本のまがった釘のように不安だった。それがどうしてかはわからないけれど不安だった。不安だけがいつも一番そばにいた。それは気が付いたときにはもうすでに近くにあって、だからむしろ不安ときみとはちかしかった。離れることはないと思った。不安はもうきみ自身といってもよかった。
イメージできるかい?
いまではきみは愛を知っている。
きみはいろいろなものにレイプされてきた。きみはずいぶん長いことそれに気が付かなかった。というよりも、きみはあらゆることに対して気が付くことをやめてしまっていた。きみはいろいろなイメージで自分を守ろうとした。でもそれは、イメージの正しい使い方ではなかったんだ。

きみはいろいろなものが入ってきて、出て行くのを感じていた。それは悲しいことだった。イメージできるかい?きみは愛を信じていなかった。愛を信じていないことを背徳だと思っていた。背徳の意味もわからないままに。だからきみは責めることができなかった。自分自身を犯していくものものに対して、怒りをもつことを禁じた。それはいつもきみ自身に向けられていた。
あえてここで語ろうか。そうしたほうが良いだろうか?わたしはわたしに関する浄化をおこなうことができるだろうか?それをもうずいぶん試してみたけれど、何をしても間違いだという心持ちが湧き上がってきて、せつなくなるだけだった。
きみがいちばんいやだったのは、身体的な、物理的な、言葉通りのレイプだった。きみはそのときイメージすることができなかった。すべてのイメージは無意味だった。イメージはイメージでしかないから。手足が生えて、きみを守ってくれるものではなかったから。不安だけが確固としてそこにあった。痛みと言ってもいいくらいの。そこにあるのは、不安と、現実だけだった。きみはどうにかして現実からの逃避をこころみた。でもそれは無理だった。きみが実際に使える時間というのはいつだっていましかなく、一秒さきの未来を一秒はやく手に入れることなどできはしないのだ。それで、それからきみは自分の身体を使うことを思いついた。きみはそれいがいに自分の持っているものを思いつかなかったのだ。きみが、思考やイメージが武器になると知るのはもっとずっとあとのことだ。
きみは自分の身体をつかった。それはイメージではなく、かたちをもって、かたちをつくることのできるものだった。きみはきみ自身の身体を好いているのかそうでないのかもうわからなかった。きみはイメージしようとした。きみの何もかもが正常であるということを、強く、イメージしようとした。できなかった。どんなに言葉に興しても、どんなに形に埋め込んでみてもそれはうまくいかなかった。そうしてきみはやめてしまった。自分自身の清廉について考えることをやめにした。

結果として、それは悪いことではなかった。
きみは知らなかった、時間というものを知らなかった。きみは今でも時間というものについてはよく知らない。イメージしてはみるが、まだまだわからないのだ。ともあれ、きみ自身のちからと、時間のちからが、きみをここまで運んだ。
むろんきみはここまでものすごく苦しんだし、それはたぶん、普通であったら体験しなくていい類の苦しみだ。でもこれだけは言えるけれど、きみの中身は現実として踏み荒らされたこともあったが、そうでなくても、きみがここにくるまでにはそれ相応の苦しみはあったはずだろう。

あれから、永遠のような一瞬が経ち、きみはいままったく違った場所にたっている。
どの時期にいたのとも、まったく違った場所に立っている。
イメージできるかい?
いまはイメージできるはずだ。イメージできないということを、その喜びと恐ろしさを、きみはイメージすることができるだろう。
きみはいくつものものものを手に入れてきたし、いくつものものを失ってきた。失ってきたさまざまなものを、きみは思い浮かべることができる。そういうふうになってはじめて、それらは本当にきみのものになるといってもいい。
イメージできるかい?
きみはかつて愛を信じていなかった。テレビの向こうで人がばたばたと死んでいくのと同じくらい、愛を信じていなかった。それはどこかにあるだろう、でもここではない、それは誰かが持っているのだろう、でもそれはきみではない、誰もきみに与えないし、きみも誰にも与えない、それは今だけでなく、きみがきみである限りそうなのだろうとおもっていた。
きみは愛という文字にけがらわしいものを見ていた。それは茶色く濁っていやなにおいのする文字だった。それをいま、イメージできるかい?

恐ろしいほどの時間がすぎた。きみにはちょっと想像できないくらいの時間だ。
対岸はうすぼんやりと見える程度だ。
きみは自分がどこまでやってきたのかをはっきり知ることができない。
けれど、イメージすることができる。
結び目を、経過を、イメージすることができる。
果てしのない場所だ。手を伸ばせば届いてしまうのに、おそろしいほどかけ離れた、さびしく、けれど心休まる場所だ。
きみはいまそういう場所にいる。
それがきみのためのほんとうの場所なのかは誰にもわからない。きみにもわからない。
きみはイメージすることができる。
愛や、夢や、可能性や、または不可能性について。
それはイメージであって、現実ではない。そのことを知りながら、きみはイメージすることができる。
それは愉しい。イメージすることは、愉しい。愉しいことばかりではないけれど、やはり、愉しい。きみはそう感じている。
あらゆる可能性があるということ、つまり、あらゆる不可能性が、ここに一緒くたに存在するということを。

きょうはもう寝よう。きみのために、わたしのために、彼のために、彼女のために。失われ、そして得られてゆく多くのものものに。
きみはいまでは祈ることもできる。
墓標も、偶像もないままに、祈ることができる。
きみは許しを知っている。それは喜ぶべきことだ。いつかきみはまた、許されざるものの存在を認めるだろう。愛を信じることもやめてしまうかもしれない。きみはでも、いまやそのことさえイメージすることができる。
そのときに考えればいい。いつでも戻ってくればいい。とりあえず次の一秒はすでにきみに与えられている。そのまた次の一秒についてはわからないが。それは誰にもわからない。だからイメージするんだ。さあ、眠ろう。



散文(批評随筆小説等) イメージできるかい? Copyright はるな 2011-03-21 01:39:56
notebook Home