【批評祭参加作品】「へんてこな作家」という親愛の情
石川敬大
―――『となりのカフカ』池内 紀 (光文社新書)を読んで
カフカといえばあの、「悪い夢に出てきそう」な、虫になる男の「悪魔じみ」た「小説」、『変身』を思いおこす読者が大部分なのではないだろうか。したがって、迷宮的(夢魔的)作家でこそあれ、カミュのように太陽が似合う向日的な作家とは想われないのかもしれないのだけれど(実際、サラリーマンであった彼は夜を徹して小説を書いた)、カフカはけっこう「よく笑った」らしい。スポーツが好きで、水泳が得意、ボートを漕いだり、乗馬をしたりと、意外にもイメージに反するアウトドア派の一面を持っていたことに、まず驚く。
さらに、「妻と買物をしたり、食事をしたりするのが夢」で、「いつもそれを願っていた」らしいのだが、「カフカは生涯、独身だった」。ユダヤ人である彼らの社会は、「独身を通すのが」困難であった。それは、「ユダヤの戒律が説いている。『生めよ、ふやせよ、地に満ちよ』」という、「たえず迫害を受け、差別されてきた」歴史ゆえの、「迫害と差別をはね返すには、みずからの血縁をふやすこと。同族をひろげること」、「それこそ生きのびる方法だった」し、「妻のない男は男ではない」という社会であった。
「カフカは生涯、独身だった」が、ずっと女性を遠ざけていたわけではない。家が狭くて騒々しく、外で暮らす三人の妹のアパートをよく執筆のために利用した。恋人もいたし婚約者もいた。同じ女性との二度の婚約、二度の結婚解消は、心の揺れそのものの顕在化であっただろう。しかし、「書くことを邪魔立てしかねないものは、やはり拒否するしかない」というのが、カフカが出した結婚に対する結論であった。有能な官吏であり、つまり一般的な社会人であったカフカにとって、書く行為に生涯を捧げることは、反面辛い結論であったこともまた間違いない事実だろう。
それなのに、四十一年の生涯の終りに当たり、「ノート類をすべて焼き捨てるように遺言して」「書きさしにしたまま死んでしまった」のはどうしてだろうか。まさに、「文学史に残ったのは、遺言を守らなかった友人の誠実な『裏切り』のおかげ」であった。
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もう一度、話を、冒頭の『変身』にもどそう。
「ショッキングな出だしのせいで、カフカの『変身』は虫になった男の物語と思われがちだが、その変身自体は最初の一行で終わっている。むしろ主人公が日常からズレ落ちたとたんにはじまる、べつの変身が問題だ。時間の変身、家族の変身、親子や血のつながりの変身。すべてがみるまに変わっていく」。つまり、家族の日常は次のように飛躍的に変化を遂げた。「音楽家志望だった妹が店の売り子になった。女中まかせだった母親が家事と内職をはじめる。ノラクラしていて、新聞を読むのが仕事だった父親は銀行の守衛になり、金ボタンつきの制服を着て出かけていく」。結局、「『変身』の主人公は、人間存在の比喩ともいえる。ある朝、虫になった男は、どのように読み換えてもいいだろう。ある日、リストラされて行き所のなくなった人、不治の病が判明した人、老の境をこえた人。そして、その家族の物語」と。それにしても次のアイロニーは痛烈である。つまり、虫になった男の死を確認した後、「家族三人は久しぶりに遠出をして、たのしく今後のもくろみを話し合った」という記述は。われわれは、いやわたしはだろうか、『変身』を読み違えていたのではないだろうかと思う。カフカが描きたかったのは、虫になった男の物語なのではなく、そのことによって巻き起こされる、家族でもある人という生き物の、日常における変身ぶりだったのだ。
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「カフカが二十世紀文学に欠かせない一人になったのは長篇小説によってである」と、池内は書く。しかも、書かれた「三篇とも未完であって」、「いのちを削るようにして長篇に取り組んだのに、高揚が終わったあとは冷淡だった。かりに邦訳の頁数でいうと、『失踪者』は三百三十五頁で、そのうち発表したのは第一章にあたる三十九頁だけ。『審判』は三百十九頁。発表したのは、このうちの二頁分。小さなエピソードを小品として短篇集に入れた。『城』は全四百二十七頁。すべてノートのままにとどまり、そっくり焼却を申し渡されていた」「短篇にわたっても同様で、生前に活字にしたのは全部で三百六十頁。いっぽう、未刊分は千頁ちかくにのぼる。きわめて限られた期間に驚くべき量と質の小説を書き、そのほとんどを世に示さなかった点でも、きわめて奇妙で、へんてこな作家だった」と。
池内は書く、「どうしておもしろいのか、よくわからない。そのくせ、強く記憶に残る」と。有能な官吏でありながら、「妻のない男は男ではない」、ユダヤ人としては半人前の男であり、生涯を書くことに捧げながらもついには「焼き捨てるように遺言」する男。わたしには、この「へんてこな作家」と書きつける池内の表記に、カフカという作家に対する親愛の情が、にじむように顕在している気がするのである。
※追記:作品の<焼却>を<遺言>したということは、<書くこと>の結果
としての作品の価値感よりも、<書くこと>の行為そのものの方によ
り価値感をもっていた、カフカの立ち位置がみえてはこないだろう
か。読者にとっては作品こそがすべてなのだけれど、カフカにとっ
ては、書いてしまったもの=作品というものには興味がなく、書く
という行為のなかにこそあらゆる作品の可能性があったということ
なのかもしれない。また、それこそが真の作品の真髄といえるもの
なのかもしれない。
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第5回批評祭参加作品