【批評祭参加作品】詩について、いくつかのこと
空丸ゆらぎ

 例えば、別の惑星の人が、あるいは幼児が、「何書いてるの?」と質問してきて、「詩」と答えると「詩って何?」とまた質問してくることが予想されるので、「青空と枯葉の関係について書いてるんだよ」と答えた。すると宇宙人も幼児も「ふ〜ん」といって何処かへ行ってしまった。

A 詩とは何か?あるいは何の名前が詩なのか?

 唐突ですが、「詩的な風景」を想像してみてください。
 一つとして同じ風景がないほどいろんな風景が各々の心の中に生まれたでしょう。それが一言で「詩的な」と形容できるものなのです。みんなが「詩的な」を想像できるということは、「詩的な」の意味を一定みんなが「分かっている」ということです。
 それは一人として同じ人物がいないのに、みんな自分のことを「私」と呼ぶことに似ています。
 詩とは「詩的なもの」を書いた文章です。あと内容面や形式的な面はどうでもいいです。もはやどんな内容でも形式でもいいのが自由詩ですから。

B 詩の内容や形式は誰が決めるのか?

 この答えは読者です。さきほどどうでもいいといいましたが、読者がいる限り、時代的な、また詩自体の到達点の中で制約を受けます。
 これはドラッカーのマーケティング論の応用です。美、芸術、詩などは「詩的な」に共通される理解はありますが、ある時代に生きる読者がその具体的価値を決めます。顧客は「ドリルが欲しいのではなく、穴を開けたいのだ」がマーケティング論の基礎です。読者はいったいその詩的な文章をどうしたいのかについて考えることは絶対に無視できない。それはその詩が売れる売れないに関係なく、詩の価値なのです。ここでは天に本物の詩があるといった絶対主義ではなく、ある特定の時代に生きていて動的で複雑な運動をしている読者が「本物」なのです。冒頭の宇宙人が「ふ〜ん」とどこかへいってしまったのでは、その詩作品は価値がないということです。

C 詩人は詩的でなくてよいのか?

 人が作品を創りますが、それは見かけでほんとうは作品が人を創ると思います。実際の過程は、「人と作品」はお互い切磋琢磨する関係にあるのでしょうが、読者に第一価値を置く限り、作品が人をつくるのが基底だと思います。
 詩的な詩人は詩をつくらない、そういいそうなのが禅思想でしょう。でもなんとなく分かる気がしませんか。少なくとも無視できない気がします。また、人物ができてなくて本物の詩がつくれるかという主張も分かる気がします。その人物は作品がつくるのだと思います。だから詩人は、読み、考えが日常生活になるのでしょう。

 詩とは何か、詩の善し悪しとは何か、詩人とは、という基本問題について考えてみました。とてもハードルの高い結論になりましたが、詩的な感性と人間性と善悪は決して矛盾しないと信じています。日々修行です。


散文(批評随筆小説等) 【批評祭参加作品】詩について、いくつかのこと Copyright 空丸ゆらぎ 2011-03-05 21:56:47
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第5回批評祭参加作品