嘔吐
乱太郎

咳き込んでいるのは僕から逃げ出したいから
なのだろうか。僕の身体はもう値しないもの
になりつつあるのかもしれない。濁音が空を
汚す。ひとつ。暫らくして、またひとつ。藻
みたいにドロドロして、蝕んでいる感性。い
や、勝手にそう思い込んでいる不確かな何か。
僕は僕を裏切る。いや、僕はまだ僕を掴んだ
こともない。

  /石のさえずる音が。午後を閉じ込める
   ように。/


吐いても吐いても、再製してくる汚物。言葉
が躊躇いがちに脇を通る。痩せ細っていくの
がわかる。喉の奥で響かせる警告音は、誰に
聴かせようとしているのか。もう遅い。いや
もういい。僕は此処でモーツアルトを聴こう。
「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」。夜明
けまでは、まだ時間がありそうだ。


  /靴音の笑い転がる音が。下弦の月を浚っ
   ていくかのように。/


雷鳴が聞こえる。一瞬天使が窓に立ったよう
な。いや錯覚に決まっている。もう神も悪魔
も古典に過ぎない。誰かのヘッドライトのい
たずらだろう。サルトルの自由すら手にする
こともなかったが・・・。砂のようだ。僕は
砂になろうとしている。人の掌から零れ落ち
る無数の孤独に。聞こえているか。たったひ
とつの擦れた音を。


  /hの狂った音が。不格好な溜息だけが
原子核の周りを回っている。/


終わりなき、とはよく言ったものだ。始まり
さえ憶えていないのに。不確かなのは、量子
の世界だけで無い。シュレーデンガーの猫は、
僕の腕の中でいびきを掻いている。今頃になっ
て物理学者になったみたいだ。砂の方程式は
書けそうもないが。解はどこにある。いや、
もうよそう。謎のままでいい。最後の嘔吐は
きっと僕を素因数分解してしまうだろうから。


/音が消えていく。ばら撒かれた痰に清
掃されたみたいに。/


自由詩 嘔吐 Copyright 乱太郎 2011-02-25 16:00:48
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